▼  |  全表示161   | << 前100 | 次100 >> |  履歴   |   スレを履歴ページに追加  | 個人設定 |   ▼   
                  スレ一覧                  
SS

【SS】チョコレートカラー・ボーダーライン

 ▼ 1 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/12 23:09:35 ID:B/765YNY [1/31] NGネーム登録 NGID登録 wf 報告

この大地は腐っている。
皆解っているはずだ。
かつてここは、緑溢れる大地だった。私達の大地だった。
毎年春先オレンの実がたくさん取れて、私達ポケモンが、遠慮なく自由に食べることができた。夏には何の心配もなく、子供達は川で遊ぶことができた。秋には積もった落ち葉を布団にした。冬には積もった新雪に足跡をつける喜びを誰もが分かち合えた。

もう、ここにはない。
そんなものはない。
全て奪われてしまった。奴らのせいだ。奴らは私達の大地を切り開いた。木を薙ぎ倒し、水を汚し、空を曇らせ土を固め、私達の仲間を、家族を捕まえていった。
私には父がいた。毛並みの立派なツンベアーだった。その大きな腕で、私を抱き寄せてくれた。暖かかった。だがもういない。父を殺したのは母だった。私の母は奴らに捕まって、自我も朦朧とした様子で、その拳を振るっていた。父は反撃しなかった。ただ、ただ私を庇うだけ庇って、死んだ。
私だけじゃない。皆そうだった。
覚えているはずだ。あの目を。あの顔を。あの声を。人間の、あの残虐さを。

私は許さない。
私達は許さない。
私達は何としてでも。同胞の血を啜ることになろうと、この命を投げ捨てることになろうとも。忘れない。誓いを、誇りを、かつてここは私達の物だったという事実を。
私に続け。全ての同胞よ。私と共に歩むあらゆるポケモンよ。
この血を私達の未来に捧げることを誓え!!


──そう、彼女が言い終わるか、終わらないかのうちに、辺りはポケモン達の叫びで揺れ動いた。
数年前人口を増やした人間によって開拓された街、その隣の山の天辺近く、数少ない野生ポケモン達の安全地帯。そこは既に、憎しみと愛で埋め尽くされて、息もできないくらいであった。手を空に突き上げるもの。涙を流すもの。目を希望に輝かせるものも、目を悲壮感に曇らせるものも、誰もが、外敵への憎しみと、失ったものへの愛を、はち切れんばかりに抱えていた。ここは人間に復讐を誓う、ポケモンのレジスタンスだった。

彼は、それを眺めていた。

「なあ、コジョンド」

誰かが声を上げた。一際高い所に立って、演説をしていた彼女を、レジスタンスのリーダーを指差して。それからその指は少し逸れて、奥に控えていた彼を指差した。

「そこにいる人間は何なんだ? 祝杯代わりに頭でもカチ割るのか?」

そんな声を聞いて、彼は軽く身を竦めた。灰色のコートの襟に口元を隠す。その耳には、剥き出しの殺意が、いくつもいくつも叩きつけられ始めていた。
そんな声達を、コジョンドは制する。

「ああ、説明が遅れたな。彼はどう見ても人間だが、人間じゃない。私達の頼れる仲間だ。そうだろう、メタモン?」

「……あまり、こっちの言葉を、使わせないでくれ。声帯が崩れる」

「そうだったな、悪かった」

彼はメタモンだった。
もう何年も、人間のフリをしていた。
 ▼ 22 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/12 23:28:32 ID:B/765YNY [2/31] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告





『いやですから、勝手にイタズラされちゃ困るんですよウチとしても!!』

『イタズラとは何ですか!! 私は抗議をしているんです、抗議を!!』

『抗議なんて言われましてもねぇ……ああもう、ウチも困るんですよいきなりそんなことされても!!』

『今現在ポケモン達が困ってるじゃないですか!!』

『えっいきなり何の話です?』

『いやいやいや、いきなりって!? いきなり!? あのポスターちゃんと見てなかったんですか!? 森の開発を止めろって私は言ってるんですよ!! あれも!!』

『読んでねぇよあんなの……とにかく!! そんなことここに言われても困ります本部に電話してください本部に!! これ以上居座るなら窓ガラスについたセロテープの跡を掃除してからにしてください!!』




 ▼ 23 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/12 23:29:19 ID:B/765YNY [3/31] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告
追い出された。
あっさりと追い出された。

『何でディットさんなんもフォロー入れてくれなかったんですか』

『えっ』

窓という窓についたセロテープ跡を全部掃除しながらグレースは説得を続けたのだが、結局何も変わらなかった、というのが実際のところだった。
ずっと付き合わされた彼は心底くたびれていた。もう夕方だった。夕陽が目に沁みた。

『……すいません今の取り消しで。私が一人で話すって言いましたもんね』

『ああ』

『付き合わせちゃって、申し訳ありません』

『別に』

横目で見れば、少女の背格好は普段よりますます縮んで見えた。ハウスメーカーに対しては文句たらたらでも、どうやら普通に反省はしているらしかった。

『明日は本社に電話かけますね』

そうでもないかもしれない。

『……はぁ』

『大丈夫、か?』

『大丈夫じゃありませんね……ディットさんにも思い切り迷惑かけちゃいましたし、ね? 一昨日も迷惑かけたばっかりなのに……ねぇ、何か埋め合わせが出来ることってありますかね』
 ▼ 24 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/12 23:30:25 ID:B/765YNY [4/31] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告





人間のふりをして一番良かったことが何かを考えるなら、間違いなく彼は人類の産み出した芳醇なアルコール文化を挙げるだろう。ポケモンとして生きている限り出会えたであろう酒と呼べるものは精々ツボツボお手製の濁酒程度のものだろうが、街に降りるだけで壁一面に並ぶカラフルなボトルに出会える。そこに関しては、彼は手放しで評価できると思っていた。

『あ"あ"ぁ"〜!! う"わ"ぁ"〜!!』

『……』

だから一人で静かに呑みたい。

彼の隣の席には、空のジョッキを握り締めたグレースが、顔を真っ赤にして座っていた。何かさせろと彼女が言うので、彼は一杯奢ってもらうことに決めたのだが、今となっては明らかに間違いだった。
どう見てもやけ酒である。隣が騒がしくて、彼としては何をする気にもなれない。

『マスター!! ハイボールおかわりぃ!!』

『はいはい……マスターはレディアンなんだけどね。頼むよ』

「分かったぞ」

グラスが淡い金色で満たされて、机を経由して、彼女の喉へと消えていく。それからすぐに、空のグラスがカウンターに叩きつけられる音ががんと響いた。いい飲みっぷりだ、と店主は笑いながら言った。

『ガールフレンドかい?』

『ただ、の、同僚だ』

『えぇー何言ってるんですかディットさぁん私と貴方の仲じゃないですかぁ』

『止めろ、揺さぶる、な、揺さぶるな、やめ』

何が不満なのか肩を押したり引いたりしていた隣の手を振り払って、ようやく彼は自分の酒に手をつけた。放置されていたミミッキュキラーは、少し温くなっていた。
横でまたハイボールを注文するのが聞こえた。同時に昼間のいざこざについても吐き出しているようだった。とんでもなく酒癖が悪い。というか代金、ちゃんと持ってるのだろうか。

『あ"ぁ"、美味しい……!! もう一杯!!』

楽しそうではあるのだが。
 ▼ 25 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/12 23:31:22 ID:B/765YNY [5/31] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告


『にしても君、環境保護団体なのか。若いのに凄いね』

『えへ……どうも……』

しばらくハイボールを浴びるように飲んで、不意に彼女は落ち着きを取り戻した。いや、意識が朦朧としているのだろうか。もうバーはすっかり元の静けさを取り戻していた。ようやく聞こえてきたテレビの声は、ニュースを読み上げている最中だった。
彼は店主にハイボールを頼んだ。それを聞きながら店主は酔いの回ったグレースからジョッキを回収して、そこにラッカの実の入った小皿を添えた。

『わたしぃ、もろもとは、トレーナーらったんですよ』

唐突にそう切り出して、彼女はラッカを二粒口に放り込んだ。

『ココロモリと一緒にぃ、ちゃんぴょん目指してたんです』

『ほうほう。そうだったのか。それで?』

『でもお、なんかいきなり勝てなくなったんでふよ。ぜんぜん。まっっっらく勝てなくなっちゃって』

彼が気づいた時には、彼女は泣いていた。店主に愚痴をこぼしながら。カウンターの上にはいくつも染みが浮かんでいて、顔はくしゃくしゃになっていた。

『れぇ、思ったんれす。なんれわたし戦ってるのかなって。むりやひ痛い思いさせて、勝手にちゃんぴょん目指して、きずついらのはポケモンらのに』

『だから、止めたのかい』

『はい。ポケモン、みーんなにがしました。ごめんねっていいながら、みーんな』
 ▼ 26 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/12 23:32:33 ID:B/765YNY [6/31] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告
脇で聞いていて、気持ちのいい話ではなかった。別に彼にとっては、これは初めて聞く話でもなかった。だが、毎度聞かされる度に嫌になった。
彼は大きくハイボールを煽った。
彼は思うのだ。彼女はまるで、自分が勝手にバトルを繰り返して、ポケモンを不本意に傷つけて、不意に自分は悪いことをしていたという真理に気づいたのだ、という口ぶりだが……それはただのスランプではないか、と。本当は、普通に立ち直って、またポケモンと共に上を目指せたのではないか、と。たまたま都合のいい逃げ場として、ポケモン愛護という道を見つけてしまっただけではないか、と。
……解放と復讐を謳うレジスタンスにいる身としては、そんなことを思うべきではない。だが彼は何度も見ていた。楽しそうに人間と旅するポケモンを。バトルを楽しむポケモンを。例えそれがボールの魔力やらフードの魔力やら、そういった何かしらで作られた感情なのだとしても。

彼女は極端なのだ。彼はそう思っている。物事の判断が極端だから、トレーナーを止めるという選択肢に至ったのだろうし、今もポケモンを持たずに環境保護団体として活動しているのだ。……恐らく、あのリンドの会の面々は、皆、そんな極端な人間なのだろう。
彼はその極端さにつけこんで、工作を行っている。

気づけば、グレースはもう口を閉じていた。うつらうつらと舟を漕いでいた。

『……もう終わりかな?』

「こっちも疲れたぞ」

『多分』

彼は同僚の肩をつついてみたが、反応はない。本当に酔い潰れて寝たようだった。迷惑極まりない。

『代金、は──』

『ああ、ツケでいいよ、今回は。今度でいい。彼女、おうちまで送ってやったらどうだ』

「ひゅーひゅー」

『……』

『嫌そうな顔をするんじゃないよ。男だろ?』
 ▼ 27 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/12 23:33:21 ID:B/765YNY [7/31] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告





『……んぇ』

寝惚けた声が背中から聞こえて、彼は反射的に顔をしかめた。

『……ぁ、ディットさん……』

『動くな。今、送って、る』

もう深夜だった。うっすらと月が見えた。彼は背中に背負った酔っ払いを、彼女の自宅まで送る最中だった。……少なくとも玄関先まで着くまでは、ずっと寝ていて欲しかったのだが。

『なんで、わらしの家……』

『前に地図を見た』

『そうですか……とおいですよ?』

少しずり落ちた少女の体を背負い直せば、ハイボールの臭いが鼻をつついた。きっと明日は二日酔いしていることだろう。彼はひたすらに歩いていた。彼自身もさっさと寝たいのだ。

『別に……わたしは、あなたのおうちで泊まっても、いいんですよ』

『無理だ』

無いものに泊められるか。内心でそう言いながら、彼は少し歩くのを早めた。
明日は多分遅刻するだろう。そんなことを考えた。
 ▼ 28 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/12 23:38:49 ID:B/765YNY [8/31] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告
───


数日が経った。
この昼もまた、彼はパソコンと向き合っていた。予算は算出して、許可を貰った。次に必要なのは、建築業者の手配だ。はじめは道路を作るときに世話になった業者に頼むつもりだったが、潰れてしまっていたのだった。
この組織がポケモン愛護団体という形である以上、この業者の手配にも時間がかかる。ポケモンを使っているかどうか、使うにしても適切な扱いをしているかどうか、そういったことに対する審議を挟まないと決定が降りないのだ。
どうせ壊すのに、と彼は鬱陶しく思った。だが変えられるものでもなかった。

彼は疲れた目を擦りながら、一度パソコンの画面を閉じた。窓際に寄る。ヨーテリーと歩く少年の姿が目に入った。
穏やかだ、と思った。二月とは思えぬ陽気だった。空をマメパトが飛んでいた。


『……』

「血を捧げよ!! 血を捧げよ!!」

『……ん?』

……窓の向こうから聞こえてきた言葉に、彼は落ちかけたまぶたを開いた。何か声がする。誰から? ……空を舞っているマメパトからだ。

「血を捧げよ!! 血を捧げよ!! ……居ないのかな……ち、血を捧げよ!!」

はっきりと聞こえた。血を捧げよ、と言っていた。
彼は窓辺を離れた。桜色のコートをひっ掴んでビルを飛び出す。そして外に出て、まだ飛んでいるマメパトに手を上げた。そして口を開く。

『あ、あ"っ"……私達の未来のために!!」

「血を捧げよ!! 血を──ああ!!」
 ▼ 29 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/12 23:39:33 ID:B/765YNY [9/31] NGネーム登録 NGID登録 wf 報告
彼の声に気がついて、マメパトは彼の方へと飛んで来た。彼の伸ばした右腕に停まり、羽繕いをする。

「いやぁ人間の見分けがつかないから大変でしたよ!! 貴方ですね、リーダーの言ってたメタモンさんは。普段山中で伝令役をやってますマメパトです」

「ああ」

流石に大通りでマメパトと会話する訳にもいかず、彼は路地裏に場所を移した。血を捧げよ、血を捧げよ、とマメパトの言っていた言葉は合言葉だった。彼がそれを聞いて適切な返事をすることで、初めて会うポケモンにも彼が見つけられるという寸法だ。

「やっぱりこの合言葉物騒じゃありませんか? いや、レジスタンスって時点で物騒ですけど」

悪目立ちしすぎですよ、とマメパトは言った。

「何が、あった。緊急事態、という訳では、なさ、そうだが」

「ああ、そうでした。いやぁ、ここを潰す作戦の時、陸路のポケモンはあの二本の道路を使いますけれど、空路で動けるポケモンは直接飛んで来るって話でしょう? 僕、先導役を任されたんですよ」

「なるほど」

「いやー、なんで僕なんでしょうね? ウォーグルさんとか、ヒノヤコマさんとかもいるのに。不思議ですねぇ」

マメパトは心底嬉しそうだった。羽をぱたつかせるその姿は、おやつにでもありついたかのようだ。とても、破壊活動を予定している顔ではなかった。
妥当な選択だ、と彼はそれを眺めながら思った。マメパト自身は不思議がっていたが、彼の地形把握能力には光るものがある。そして、姿からして警戒されにくい。

「ですからね、一度どのように動くかを見てこいって、幹部のガントルさんが。貴方を頼れって」

「……わかった」
 ▼ 30 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/12 23:40:14 ID:B/765YNY [10/31] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告





「ここが、ポケモン、センターだ。人間、の、ポケモンは、倒れてもここで、元気になる」

「最優先で潰すべき目標って感じですね!! でも、初動の段階で橋が轢き潰す算段でしょう?」

「ああ。だが、もしもの場合、もある」

「わかりました。一番に確認するようにします」

彼はマメパトを引き連れて、ちょっとしたお散歩に出ていた。……端から見たら、ちょっとしたお散歩にしか見えないように歩いていた。もちろんポケモンと会話しているのを大っぴらに見せたくはないので、建物の影を歩きながら、こっそりと。

「ここは何です?」

「バトル施設、だな。いわゆるジムだ。強いポケモンを、連れた、人間はここに多い」

「ここも橋が……」

「その、つもりだ。……生き延びた、トレーナーがいた、ら、危険だ。見つけたら、優先的に」

「なるほど」

彼がそう言えばマメパトは頷いて、くるくると喉を鳴らした。それから、わざとらしく咳をした。

「……いやー、やっぱり人間の街の空気は悪いですねえ」

「気のせいだ」

咳き込むマメパトに、彼はそう返した。

「ここも、山も、変わらん。空気は同じだ」
 ▼ 31 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/12 23:41:11 ID:B/765YNY [11/31] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告
マメパトはその返事が何とも納得いかないようで、不満げにまた喉をくるくると鳴らした。彼はまた歩き始める。
トレーナーが集まり備蓄も多いポケモンだいすきクラブ、辺り一帯の電気を扱う変電所、人が集まるであろう病院。そういった施設を回りながら、本当に計画は進んでいるのだと改めて彼は実感した。そこまで押し進めたのは、間違いなく彼自身の働きだった。

「ここは、スーパーマーケット、だ。食料品や、道具、が、集まってい、る」

「木の実とかは持っていける感じですか?」

「ああ。ただ、スプレータイプの、傷薬とか、は、潰して、おくように。俺、は、使えるが、ポケモンには、使えない」

「なるほどなるほど、人間の回復手段を潰していこうってことですね、わかりますわかります。じゃあここは早めに襲いたいですね」

スーパーの前で立ち止まって、そんなことを話していた時だった。何となく、遠くからこちらに駆け寄ってくる足音がした気がした。
彼はふと不安に襲われて、振り返る。

『ディットさーん!!』

「あっ」

どういう巡り合わせだか、たまたま彼を見つけたのであろうグレースが、彼に駆け寄ってきているのが見えた。
彼はマメパトに向き直り、弾かれたように空へと投げ出した。そして小声で言う。

「これで、終わりだ。帰って、いい、ぞ」

そんな風に。マメパトは事情を察したのか一気に空へと飛び上がった。

『こんなところで何してるんですか?』

「あ"っ"、い"や"……っ、外の空気、を、吸いたく、なって』

マメパトと入れ替わるように、グレースが彼に話しかけた。彼は大きく咳き込んで、自分の言語を切り替えてから、雑に自分が外にいる理由を拵えた。用事は済んだのだ、早く戻って仕事をしよう。

「頑張ってくださいねー!!」

空の遠くの方から、マメパトのそんな声が聞こえてきた。
 ▼ 32 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/12 23:41:57 ID:B/765YNY [12/31] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告





『新作があるようなんだが』

『じゃあそれを一杯』

「よしきた」

その晩もまた、彼はいつもの店のいつもの席に掛けていた。サービスで出されたシュカの実を齧りながら、レディアンがシェイカーを振る音に耳を傾ける。ふとテレビを見上げれば、バラエティ番組がバレンタインデーの話を取り上げていた。
そういえば、昼間見たスーパーでもバレンタインフェアをやっていたな、なんて考える。一瞬酒癖の悪い同僚の顔が脳裏を過って、彼は無自覚に眉を潜めた。さすがに何年も人間のふりをしているのだから、バレンタインデーの意味くらい知っている。

『あの女の子辺り、くれるんじゃないかい、チョコ』

『困る』

仮にそうなった所で、すぐ死んでしまうだろうから。
計画は進んでいる。日々着々と、彼が動かすままに。反逆の狼煙が立つ日はもうすぐそこまで迫っている。そうなった暁には、彼女はもうこの世にはいないのだろう。
彼が。彼の作り上げたものが、殺すだろうから。
生々しい血のイメージが、彼の脳裏に閃いた。轢き潰された人間の、貫かれた人間の、引き裂かれた人間の、締め上げられた人間の、人間の、人間の、人間の。

「出来たぞ?」

がら、と氷が崩れる音がした。
彼が顔を上げれば、薄い黄色がグラスの中に揺れていた。

『……これは』

『ナナシとセシナのカクテルだ。名前は……そうだな。雪融けの気配、なんてどうだ? オシャレだろ』

「ダサい」

『ダサいと思うぞ』

彼はそう言いながらも、躊躇いなく雪融けの気配に口をつけた。舌に転がり込んだそれはほろ苦く、ほんのりと酸っぱく、柔らかかった。
 ▼ 33 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/12 23:42:59 ID:B/765YNY [13/31] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告
ドアが開く音がした。何となく彼が振り向けば、まだ酒は呑めそうにない背格好の少年が立っていた。
その少年はきょろきょろとバーを見回してから、彼の隣のカウンター席に座る。躊躇いなく。

『……知り合いかい? この子』

『いや』

店主と彼は少し顔を見合わせた。しかし、客は客だ。店主は少年の方に顔を向ける。

『えーと、うーん……ミルクでも飲むかい。400円だけど』

その問いに、少年は静かに頷いた。彼はその姿をぼんやりと眺めていた。この若さで一人ということは、旅のトレーナーだろうか。やはりベッドを求めて来たのだろうか。そんなことを考えた。……少年と目があって、視線を逸らした。
雪融けの気配を飲み下す。大分頭が冷えた気がした。

『はい、ミルクだよ』

少年の前に、マグカップいっぱいのミルクと魚のフライが差し出された。少年はフライをまじまじと眺めてから店主を見上げる。

『そいつはサービスだ』

「ごゆっくり」

店主はからからと笑って、レディアンと共に一旦店の奥へと去っていった。
少年は黙っていた。黙って、ミルクに口をつけた。彼は空になったグラスを振りながら、また横目でその少年を見た。……また目があった。

『……すまない』

何とはなしに謝って、また顔を前に向ける。氷ばかりだと解っていたが、またグラスを煽った。

「ねえ、君」

『……ん?』

隣から、声をかけられた。見れば、少年はすっかりこちらを向いていた。

『なんだ』

返事を返して、ふと思う。
うっかり普通に返事をしてしまったが。……目の前の少年は、人間の言葉を使っていない。明らかに、ポケモンの言葉で話している。
 ▼ 34 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/12 23:43:34 ID:B/765YNY [14/31] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告
「君、人間じゃないでしょ」

『ん"ん"っ……お前、誰だ」

「やっぱり。臭いが違うもんね。……僕はただのゾロアだよ。東の方から来た」

少年は……いや、ゾロアはそう言った。周りを確認してから、その少年は彼に見せつけるように黒い尻尾をちらつかせて、すぐに消す。イリュージョンか、と彼は納得した。そういうポケモンがいるらしいとは、聞いたことがある。

「なんで、ここに?」

「んー……いや、前の家が人間に潰されたんだよね。だから、その、安住の地を探しに来たって感じかな」

「そうか」

ゾロアはそう語った。どうやらどこに行っても、人間は幅を利かせているらしい。

「ここも、安住の地には、ならん、だろう」

そして、そんなゾロアに彼はそう言う。ゾロアは首を傾げながらミルクをまた一口飲んだ。
足音がした。それと共に、店主がカウンター席まで戻ってくる。二匹はまたカウンターの壁に視線を戻した。

「おっといけない」

「続きは後だ……ん"っ、あ"、あっ。……さっきの、もう一杯頼む』
 ▼ 35 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/12 23:44:20 ID:B/765YNY [15/31] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告





「いやー、いいなー君、人間の言葉使えちゃうんだ!! いいなー羨ましいなー」

どこからどうみても人間の子供のようなゾロアは、そう言いながら彼を見上げていた。
二匹は店を出ていた。本来なら二匹ともバーの仮眠室にお世話になるつもりだったのだが、どうやらこのゾロア、持ち合わせの金がないらしいのだ。というかこの街に来るまでに、あちこちで盗みを働いては糊口を凌いできた歴戦の泥棒らしい。
そんなゾロアを放っておくのは気が引けて、彼は風来坊を案内している。

「いやー僕は人間の言葉全然だからさ、どうしてもって時はホワイトボードに文字書いて誤魔化すんだけど、いいなー凄いなー」

「声帯、人間に似せたから、な。でも、油断すると、すぐ崩れ、る」

「えっじゃあその度に声変わりすることになるんだ」

「ああ」

会話をしながら、二匹は山を登っている。彼の案内するままに、ゾロアも少年の脚を動かしている。
既に深夜だった。街よりは何となく星がはっきり見える山道を、ひたすらに歩いていた。
 ▼ 36 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/12 23:45:10 ID:B/765YNY [16/31] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告
「にしても、着いてこいって、どこまで行くんだい?」

「山の、上までだ」

「げえっ、本当? ……まあいいんだけど」

積もった雪を冷えきった空気ごと踏み分ける。雪の下で、ざくざくと石を踏み分ける音がした。
ゾロアは先導者の背中を見ながら、先ほどの彼の言葉を思い出していた。ここも安住の地にはならないだろう……そんな、ここに住んでいるはずのポケモンの、その言葉を。

「ねえ」

「何だ」

「さっきの……その、ここも安全じゃないぞ、的なあれ。どういう意味?」

その時だ。
またざくざくと音がした。
二匹の足音ではない。二匹の周囲から、いくつも、いくつも折り重なった足音。駆け寄ってくる足音。それが止むと、今度は囁き声が聞こえてくる。闇の中に白い点が浮かび始めた。

「人間だ」

「人間だ」

「どうする?」

「殺すか」

「いや、でもリーダーは」

……瞳だ。白く瞳が光っている。沢山の目が、二匹を取り囲んでいる。全てポケモンのものだ。この山に住む、人間を憎むポケモン達の。
ゾロアはそれを悟った。悟ったから、そのイリュージョンを解除した。

「アイムポケモン!! アイムポケモン!!」

黒いポケモンの姿を露にする。瞬間、周囲がざわついた。
メタモンもそんなゾロアに合わせて口を開く。俺はレジスタンスのメタモンだ、そうポケモンの言葉で言えば、もう囁きは消えていた。足音の群れは去っていく。

「……今のは」

「言っただ、ろ。ここは、安住の地には、ならない」
 ▼ 37 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/12 23:46:01 ID:B/765YNY [17/31] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告





それから一時間足らずで、二匹は山の頂上までやってきた。既に他のポケモンから事情を聞いたのだろうコジョンドが二匹を出迎えて、くたびれた様子のゾロアに目をやった。

「急にどうしたんだ、メタ。……そのポケモンは?」

「拾いもの、だ」

彼がそう言ってゾロアに促せば、促された方は軽く頭を下げて、どうやら偉い立場にいるらしいコジョンドに挨拶した。

「どうも、ゾロアです。東の方から旅してる途中でここまで来まして、たまたま会ったメタモンに、案内して貰ったんです、ここまで」

「東の方……それは、まさか、以前手酷く人間にやられたとかいう、あの辺りだったりするのか?」

「ええ、はい」

「……そうか、大変だったな。下の方の救護施設に空き部屋があったはずだ、休んでいっていいぞ。ガントル、案内を頼む」

それだけの会話で、コジョンドはゾロアを受け入れた。コジョンドは知っていた。以前東の方にあったとある群れが、人間によって全滅させられたらしいと。
ならば同志だ。彼女は考えた。人間によって虐げられた者は皆、一塊になって復讐するべきだ。故にこのゾロアもまた、レジスタンスに相応しい、と。
洞穴の奥から出てきたガントルが、ゾロアの肩を軽くつついた。

「……着いてこい」

「やったぁ」
 ▼ 38 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/12 23:46:50 ID:B/765YNY [18/31] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告
……去っていくゾロアを見送って。
コジョンドは隣の人型を見た。桜色のコートに身を包んだ彼は、いつもより、何となくやつれて見えた。

「……計画の調子は、どうだ」

「もうすぐ、だ。上司に話を、つけられれ、ば、建築に、取り掛かれる」

「早めにポケモンには工事について知らせないとな。工事の発注が済んだら教えてくれ」

彼女は山の中腹を見下ろした。もうじき、彼処に橋が架かる。もっともらしい理由をつけて作られた、大きな、大きな橋。
それが出来上がった時。それは橋ではなく、敵地への壁を突き破る槌になるだろう。

「……そしたら、お前の仕事もとうとう終わりだ、メタ」

「……ああ」

「その憎たらしい人間の姿ともお別れできるだろう」

「……ああ」

「改めて、礼を言う。私の我が儘に付き合ってくれて──」

……彼女の目の前に、人間の指が差し出された。横を見れば、彼は目を細めていた。少し戸惑ってから、どうやら隣の彼は自分の口を塞ごうとしているのだと彼女は察した。

「言うな」

「……そうだ、な。これを言うのは、全部が終わってからの方がいい。そうだ。そうだな……まだ、早いな。私としたことが」

彼は、借り物のコートの襟に口元を隠していた。
冬の山は冷える。

「今夜はどうする? ここで寝ていくか?」

彼は小さく頷いて、裾を叩きながら洞穴に入った。
自室へと歩きながら、昼間のマメパトのことを思い出した。あのマメパトに語ったように、彼の計画が上手くいけば、あの街の主要施設は形無しになるだろう。
多くの人間の血が流れる。多くの人間と共にいるポケモンの血が流れる。そしてまた、多くの野生ポケモンの血も流れる。しかし少なくとも、この山のポケモン達はその血を望んでいた。

「……」

一瞬コジョンドの部屋に入って、火種を借りる。それを自室の暖炉に移して、彼は部屋の隅の手鏡を取った。
人間そっくりな自分の顔を見直して、綻びがないか確かめる。彼はまだ、人間を殺すために、人間でいなければならなかった。
 ▼ 39 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/12 23:47:45 ID:B/765YNY [19/31] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告
───





コジョンドとも、もう長い付き合いになる。
最初に会ったのはいつだっただろう。ずっと前だ。彼女がまだコジョフーだったことは確かだ。……彼はそんなことを考えていた。ぼんやりガラス窓の外を眺めながら。
彼の横では、彼の提出した建築業者の資料を上司が精査していた。

『なあディット、やっぱり我々としてはだね、なるべくポケモンに頼らない建築業者を探すべきだと思うんだよ』

『なるべく早く、作るべき、だ』

『なる早ねぇ。いや、ポケモンに頼ればそりゃ仕事は早いとも。確かにそうかもしれないけどさぁ』

彼はそんな風に唸る上司からまた意識を飛ばして、昔のことを思い出そうとしていた。
彼自身、自分がいつからこの辺りに住んでいたのか覚えていない。多分この街の近くの森に生まれたのだろうが、何しろ彼はメタモンで、親がわからなくて、一匹だった。そんな彼と最初に友達になったのが、多分あのコジョンドだったのだと、彼は考えている。

つまるところ、彼とあのコジョンドとは幼なじみだった。コジョフーだった彼女と一つのモモンを分けあったこともあるし、彼女のトレーニングにも付き合ったし、彼女の家に厄介になったことも何度もある。ずっと、彼女の側にいたような気がする。
……彼女が全てを失った日も、彼が一番側にいた。
 ▼ 40 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/12 23:48:52 ID:B/765YNY [20/31] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告
『なあディット、でもやっぱりこの業者は不味いんじゃないのかい』

『……あっ、いや、でも』

『悪いけどさ。もう一回、別の業者探してみてよ』

突き返された資料を受け取って、彼はとぼとぼと席に戻った。建築業者の探し直しである。
デスクに座って、パソコンを立ち上げる。……どうやら何かしらのアップデートがいるらしく、作業開始にはしばらくかかりそうだった。

数年前のある日、人間は森へ、山へと立ち入った。目を閉じた彼の脳裏に、親を失くしたコジョンドの泣き顔が閃いた。彼女は人間を憎んでいた。そして彼には、どうしてやることも出来なかった。
一介ののポケモンにはどうしようもないことだった。人間はポケモンを意のままに扱うことができる。それも一匹ではなく、複数だ。勝てるわけがなかった。ただのコジョンドにも、ただのメタモンにも、どうしようもない事実がそこにあった。
ただ、一つの偶然で。そのメタモンは、ただのメタモンではなくなったのだ。

『……』

過去を思い返しながら、彼は一度資料を見直した。パソコンはまだ起動してはいなかった。

人間の姿を得た日を思い出す。死ぬ思いをして、それでも生きるために、あれだけ恐ろしかった人間を模倣した。作りたての二本脚でコジョンドの元に辿り着いた時、コジョンドは躊躇いなくとびひざげりを撃ち込んできた。
皆、怖かったのだ。憎かったのだ。もちろん、彼自身も。
己の二本の手が、脚が、おぞましいと思った。あまりにもメタモンである彼には不自然に思えた。早く戻りたいと願っていた。

それでも。彼女の方がもっと恐れていることを、彼は解っていた。
私は人間に復讐する。彼女は震える脚でそう言った。それにどれだけ勇気が必要だったことだろう。それを思えば、断る訳にはいかなかった。
彼女を助けようと、あの日、彼は約束していた。

『……よし』

小さな電子音が鳴って、パソコンが起動した。彼には、やらなければならない仕事があった。
この街の向こう側で、彼を信じているポケモンがいた。
 ▼ 41 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/12 23:49:36 ID:B/765YNY [21/31] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告





『ああ、明日お休みにするから』

唐突に、デスクの向こうからそんな声が聞こえた。資料を纏め直していた彼がパソコン越しに声の方を向けば、上司が両手を合わせていた。

『どうし、て?』

『いやー突然で悪いねディット。会長がさ、支部の人間をかき集めるなんていきなり言うもんだから。俺行ってくるから、明日はここはお休み』

ゆっくり休め、と言いながら、上司はパソコンを仕舞っている様子だった。
そういえばもう二週間は続けて仕事をしていた気がする。人間の法律的には不味いのだろう。仕方がない。彼もまた、パソコンを片付けた。桜色のコートに手をかける。


雑居ビルを出れば、冷たい夜の雰囲気が彼を出迎えた。何となく出てきたビルを扇ぎ見れば、自分のデスクが少しだけ見えた。
ここも、壊すのだ。それが彼の仕事だから。

そういえばゾロアはどうなっただろう。彼はそんなことを考えながら歩き始める。もう山を出て、南に向かったのだろうか。それとも、まだ泊まっている? それはつまり、レジスタンスとして人間と対立することになるはずだが。
考えをぐるぐると巡らせながら、しかし彼の行き先は決まっていた。いつものバーのドアを開ける。

『マスター!! ハイボール!!』

『今日は一杯だけなんじゃなかったのかい?』
 ▼ 42 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/12 23:50:38 ID:B/765YNY [22/31] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告
立ち竦んだ。
カウンター席で、グレースがハイボールを煽っていた。

『ああ、いらっしゃい。彼女来てるよ?』

『彼女、じゃ、ない』

正直店を出たくなった。が、店主はそれを見越したのか既に彼の分のつまみを皿に用意していた。……そしてご丁寧にグレースの隣の席に置いた。

「ほれ座れよ」

『外寒いだろ? 中入りなってほら』

仕方がないので店に入る。グレースの隣に座れば、既に一杯呑んでいたらしい彼女が絡んできた。

『あ!! お疲れ様ですディットさーん』

『なんで、いるんだ』

『私例のハウスメーカーの本部まで行ってきたんですよー。開発止めろーって。ポケモン使って追い出されちゃいましたーもうやってらんませんよ!! 今日は自分へのご褒美しに来ました!! ハイボール呑みます!!』

『死ぬぞ』

顔を真っ赤にした同僚を横目に、彼は雪融けの気配を注文した。それからサービスのスモークチーズに手をかける。

『ディットさんお洒落なやつ頼みますねぇ何ですか気取ってるんですか、全部ハイボールでいーんですよカラカラーってね、氷を言わせるのが良いんですよ』

『静か、に、呑ませろ』

……やけに絡んでくる。というか大分馴れ馴れしくないか? 彼はその肩を押し返して、それから雪融けの気配を一気に飲み干した。
頭を冷やす。うっかりすると、頭が全体的に熱くなっていそうな隣から酔いが感染ってくるような気さえした。もう一杯注文する。

現実逃避のつもりで、テレビを見上げた。またバレンタインの特番をやっていた。
 ▼ 43 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/12 23:51:25 ID:B/765YNY [23/31] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告





『……寝たね、彼女』

ハイボールを二杯と、それから適当なカクテルを二杯呑みほした辺りで、彼女はぴたりと動きを止めた。すやすやと寝息を立てている。
彼は残っていたスモークチーズを口に入れながら、どうしたものかと彼女を眺めていた。

『家まで、送るの、疲れる。よく考えた、ら、仮眠室で、良くない、か』

『はぁ……あんたねぇ……』

店主は何故だか呆れていた。何がどう不満なのか彼にはさっぱりなのだが、どうやらその呆れ顔は彼に向けられたものらしかった。
彼は酔い潰れた同僚をひょいと抱き上げて、仮眠室の空いていたベッドに投げ込んだ。着ていた山吹色のコートを脱がせてハンガーに掛けて、毛布を被せてやって、それからカウンター席に戻る。

『やっと、静かになった』

店主はやっぱり呆れた顔をしていた。横ではレディアンがやれやれといった感じで首を振っていた。何がなんだかさっぱりわからない。

『あのなあんた……いや、俺が言うことじゃあ、ないか』

「せめて仮眠室には一緒にいてやるんだぞ、鈍感男」

鈍感男とは何だ、と言い返しかけて、自分は今ポケモンの言葉はわからないはずなのだと思い出す。とりあえず水を一杯頼んだ。
 ▼ 44 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/12 23:52:04 ID:B/765YNY [24/31] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告


リンドの会に入ったのは、二年前だったか二年半前だったか。人間としての言葉を覚えて、任務遂行の為に技術を得て、そうして転がり込んだのがあそこだった。
彼にとっては敵地だった。周りは皆ただの人間で、その人間達は彼を人間だと思って疑い無く接してきた。当然、馴染めるはずもなかった。ひたすらに彼は仕事に打ち込んだ。そうしていれば、会話をしない口実が作れたから。人間と仲良くする理由なんて彼にはなかった。

『……』

彼は仮眠室の壁に桜色のコートを掛けながら、グレースが埋まっているベッドの、その隣のベッドに腰掛けた。寝息が聞こえるから、多分生きてはいるのだろう。

人間と会話するのを避けていた彼だが、そんな彼にも構ってきたのが、確か彼女だったと思う。……いや、向こうも多分好きで構ったわけじゃないだろう。仕事の成り行きでそうなったのだ。彼が任務を遂行するためにはどうしてもあの仕事場である程度認められる必要があって、そのためには仕事を成功させる必要があって、その過程で、彼女と一緒になることが多かっただけ。
ただ、その結果として、彼女とは結局仲良くなってしまった、と思う。仕事の過程で、随分長い時間を彼女と過ごした。なんだかんだ言ったところで、慣れない言葉で会話を重ね、行動を共にし、笑顔を拝んできた。
そうなるつもりは本当になかったのだ。黙って仕事をするだけでいたかったのだ。だが人間の世界はどうしてもそれを許してはくれなかった。

なんでカウンター席であんな顔をされたのか、本当のところは、何となく察している。ただ認めたくないだけだ。
 ▼ 45 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/12 23:52:59 ID:B/765YNY [25/31] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告
───


『……ふぁぁ』

大きな欠伸が、仮眠室に響いた。
グレースは大きく伸びをして、それでも夢からはみ出してしまいたくなくて、のそのそと毛布に顔を埋めた。
たっぷり十秒微睡んでから、慌てて飛び起きた。

『あ"っ"寝坊したぁっ!!』

『今日は、休みだぞ』

少し前に起きていた彼は、桜色のコートを羽織りながら指で彼女を黙らせた。
今日は活動はお休みだと聞かされて、グレースは肩を撫で下ろす。それから、自分が見知らぬベッドで寝ていることに気がついた。辺りを見回せば、そこは昨晩のバーの隣室らしかった。そういえば仮眠室があったな、と彼女は一人納得する。

『お休みならそう言ってくれればよかったのに』

『呑んでなかった、ら、言えたが』

『あぁ』

彼にそう言われて、彼女は昨晩の自分の様子を想像した。記憶ははっきりとしていないが、多分ガバガバと呑んだのだろう。財布を確認したら、大分薄くなっていた。

『あちゃー』

『早死にするぞ、酒、控えろ』

『すいません……以後気を付けます……』

彼は大袈裟に頭を抱える彼女に山吹色のコートを投げてやって、それから一つため息をついた。
実は彼女の持ち金だけでは払いきれないぐらい呑んでいたので、半分くらい立て替えてやったということは言わないつもりだ。

『にしても、今日お休みなんですね』

『ああ』

『うーん、普通に暇になっちゃいました』

彼女は乱れた髪を指でとかしながら、しばらく何かを考えている様子だった。彼は意識的に彼女から目を逸らしていた。既に身支度を終えた彼は、しかし特にやることもないので、一日を散歩で潰そうかとか考えていた。

『あっそうだ、ちょっと付き合ってくれませんかディットさん』

『……何処に』

予定変更。
 ▼ 46 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/12 23:53:33 ID:B/765YNY [26/31] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告





『いい映画でしたね……OL・ザ・ジャイアント』

『センス、変だぞ』

なんでこんなことをしているのだろう。彼は映画館を出てからそう思った。いや、他に行くところもないから同僚に付き添うことにしたのだが、巨大なOLの脚を二時間拝むことは想定外だ。しかも最終的には巨大なOLが世界を滅ぼすときたものだから全く納得がいかない。何だったんだあれは。

『あの俳優さんが出る映画はいつもあんな感じですよ』

グレースはそう言いながらポップコーンの容器を返却していた。彼女曰く、悪党に寝返る正義の味方やら、全部ドッキリでしたエンドやら、他人のポケモンにプロポーズする主人公やら、そういった映画ばかり撮っているらしい。

『よく採算が取れるな』

『人気なんですよ?』

二人は外に出た。世界の眩しさに、彼はまだ昼間であることを思い出した。
今日はこれで終わりなのかと聞いてみれば、グレースは大きくかぶりを振った。その脚でどうやらスーパーマーケットまで向かうようだ。

歩きながら、彼はさっきの映画の内容を思い返してみた。いや、絶対にあれは感慨に浸るようなタイプの映画ではないのだが。ただ、巨大な脚が建物を破壊していく様には、どうにも嫌な心持ちがした。やることは同じなのだ。あれも、彼も。
ふつふつと嫌な予感がした。やはり判断を間違えた気がする。
 ▼ 47 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/12 23:54:43 ID:B/765YNY [27/31] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告


スーパーマーケットについた二人は、そのまま手芸用具のコーナーまで辿り着いた。何をするのかと彼が聞けば、グレースは当然のように生地を買うのだと言った。

『何の、生地だ』

『コートのです。ディットさんのあれ、やってて気づいたんですけど、割と欠けてる部分が多いんですよね。仕方ないので継ぎ接ぎにしようと思うんです。いいですか?』

別にそこに拘りはない。彼は軽く頷いて、それから自分の今纏っているコートを改めて見直した。そういえば、これは借り物だった。それすら彼は忘れていた。
グレースは陳列された布のロールを見比べながら、うんうんと唸っていた。

『んー……灰色、ありませんね』

『そうだな』

『仕方ないから別の色にしますね。あっこれとかいいんじゃないですか、ゴールド!!』

『派手すぎないか』

『むう。じゃあディットさん、何がいいと思います?』

そう聞かれれば、彼の脳裏に桜色が閃いた。……いや、取り消した。今着ているから思い浮かんだだけだろう。
彼は陳列棚を一回りしてから、ワインレッドを選択した。彼としては黒が一番自然なんだろうと思ってはいたのだが、残念ながら売り切れていた。

『あー、この色もいいですねぇ!! じゃ、これにしましょっか!! すいませーん!!』

グレースが店員を呼びつけた。彼女の指示で裁断されていく布をぼんやり眺めていれば、ワインレッドに血の色が重なって見えた。
胸がふいにむかついた。布地の赤が辺り一面に塗りたくられた光景を想像してしまって、堪らず目を閉じていた。
 ▼ 48 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/12 23:55:09 ID:B/765YNY [28/31] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告


この寒いのによく冷たいものを食べるな、と彼は呆れと共に感心していた。目の前では、同僚がチョコレートフレーバーのソフトクリームにときめいている最中だった。

『寒くないのか』

『寒いですけど。ほら、プレミアムチョコレート味、今限定なんですよね』

生地を買い終えた二人は、スーパー内の喫茶店に直行していた。どうやらチェーン店らしいそこは適度に人で賑わっていて、ところどころからポケモンの声もした。
グレースがたった今ナイフを入れたのは、温めたデニッシュパンにソフトクリームを乗せソースをかけただけの簡素なデザートだ。人気は根強いらしいのだが、彼は食べる気にはならなかった。コーヒーだけ注文して、彼女の顔を眺めていた。

『いやーやっぱ美味しいですよこれ、食べないのもったいないですって!! 一切れあげますよ?』

『いらない』

お前が食べろ、と手で促す。そうすれば彼女は、自分で誘っておいたにも関わらず嬉しそうにソフトクリームの染みたパンを頬張った。
飽きない顔だと思った。それをただ見ながらコーヒーを啜った。研ぎ澄まされた苦味が脳を貫いて、彼は何度か瞬きした。

『……ディットさん苦いの苦手なんですか?』

『いや、別に』

首を振る。少しばかり目眩がして、彼は脇にあったスティックシュガーを掴んだ。さらさらとコーヒーに注ぎ入れながら、黒い水面に映る己の眼を睨んでいた。
 ▼ 49 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/12 23:55:39 ID:B/765YNY [29/31] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告





『いやー、大分付き合ってもらっちゃいました』

最終的には荷物持ちをすることとなった彼は、両手に弁当やらカップ麺やら何やらの詰め込まれた袋を提げて、前を行く同僚の長い影を踏み続けていた。
オレンジ色に照らされた街並みは、最早見慣れたものだった。今さら感慨も浮かばない。月並みな街に、月並みな人と、月並みなポケモンが住んでいるだけ。

『もういいですよ。家、そこですからね』

『そうか』

グレースはそう言って、彼の手元に手を伸ばす。指先が触れて、彼は荷物を手渡した。

『今日はありがとうございました、ディットさん』

別に礼を言われるようなことは何もしていない。ただ一緒にいただけなのだから。本当にそれだけで、特別なことでもないのだから。
だから。

それ以上言うな。

『また、やりましょうね』

『──ああ』
 ▼ 50 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/12 23:56:32 ID:B/765YNY [30/31] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告





彼女が自宅に入っていくのを見届けて、彼はようやく踵を返した。
彼女の言葉が、作り物の頭蓋の中を反響する。

『また、やろう、か』

また。
次なんてないのに?

どうしてこんなことをしてしまったのだろう。彼はまた後悔した。いや、その後悔の色はさっきまでのそれとは多分違う。本当に、心の底から、後悔していた。
また。彼女はそう言った。何の疑いもなく。何の不安もなく。これからも日常が続くと信じて疑わない彼女のその言葉が、彼の心を斬りつける。
こんなことになるなんて、解っていたはずなのに。

日の落ちた街を行く。空は藍色に染め上げられ、街灯の黄色がぽつぽつと足元を照らしている。彼は自分の影を眺めて、眺めて、そうして脚を動かしていた。
人間を見たくなかった。ポケモンも見たくなかった。そうなるとどこにも行く宛てがなくて、体が動くのに任せてただ歩くしかなかった。頭の中には、まだ彼女の声が残っている。

『また……また、か』

それでも、やらなければいけない。
彼の働きを待っている仲間が大勢いる。復讐を遂げようと爪を研ぐ仲間が。彼は期待されている。人間を殺す最初の一矢を作り上げる職人として。
信頼に、報いなければならない。成し遂げなければならない。牙を剥かねばならない。
彼は、この街を殺さなければならない。次なんて、来てはならないのだ。

また、やりましょうね。

その声がまた頭を揺らした。彼は反射的に、近くにあった街灯を殴り付けた。腕を痺れと痛みが駆け抜けて、頭の中まで赤く染め上げた。

『──はぁ、はぁ』

視界が明滅する。喉が渇いていた。右腕の感覚は吹っ飛んでいたし、足元も妙に頼りない。
仕方がなかった。
彼は道を脇に逸れて、ビルとビルの隙間、路地裏へと転がり込んだ。もう立ち上がる気力もなかった。彼はここで一晩を越すことに決めた。桜色のコートを脱いで布団代わりにする。見上げた狭い空からは星も見えなかった。
 ▼ 51 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/12 23:59:40 ID:B/765YNY [31/31] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告
───


『うーん、ここはちょっと予算オーバーじゃないかい?』

『……そう、か』

突き返された書類を受け取った彼は、もう文句も言わずにすごすごと自分のデスクに帰っていった。
休日から三日経つが、彼の様子が目に見えて疲れているというのは職場内でも密かに囁かれていることだった。曰く、疲れた顔をしている、だの、目元が変わった、だの、顔色がおかしい、だの。そんな感じだ。
彼にもそれは解っていた。鏡を見る度に同じ事を思っている。メンテナンスは怠っていないはずなのだが。朝に彼が崩れた目尻を修正しても、昼過ぎにはまた戻ってしまっている。大分由々しき事態であった。今はまだ疲労という扱いで済んでいるが、うっかりメタモン顔に戻ってしまったら恐ろしいことになるだろう。一度少しずつ解して、作り直した方が良いのだろうか。

『なあディット、やっぱり君疲れてるんじゃないのかい。今日はもう帰るか?』

『……大丈夫、だ』

『仕事熱心なのはいいことなんだけれども。けれども、ほら、何事もやりすぎはよくないよ。お前が倒れたら私がグレースにどつかれることになる』

グレース。……そうだ、グレースがいないうちに、仕事を済ませてしまいたいのだ。彼はまたパソコンを睨んだ。
彼女は今、三日連続であのハウスメーカーの本部に突撃し続けている。愚直というか非効率というか、正直彼にとってはそんな風にしか思えないのだが、だが今はそれでよかった。
彼女の顔を見たくなかった。どうしてかは、はっきりと言葉にできないが。

三日連続といえば。
そろそろか、と彼はのそりと立ち上がった。窓際に寄って耳を澄ませる。

「血を捧げよ!! 血を捧げよ!!」

そんな声が、聞こえてきた。
 ▼ 52 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/13 00:00:26 ID:01co36FA [1/70] NGネーム登録 NGID登録 wf 報告


「ああ、北向きの方の道路ですが、山側の確認終わりました!! 異常ありません!!」

「……そうか」

鳩胸をいっぱいに張って報告するマメパトに、彼は淡々とそう返した。
山の上では、いよいよ橋が出来るのも近いということで、作戦に使用する道路に異常がないかを確認しているようだった。もしあったら修繕できるのは彼しかいない。だから必然、異常があるにしろないにしろ、マメパトは彼に報告しにくるのだった。

「東向きの方も山側森側共に問題なしでしたし、これは幸先が良いですよね!! メタモンさん!!」

「……そうだな」

「後点検するのは北向き道路の森側だけです!! それが終われば、次は実際の襲撃の面子確認ですかね。いやぁもうすぐですね!!」

マメパトは楽しげに震えていた。武者震いというやつなのだろう。彼はその腕に掴まっている鳥を眺めながら、ぼんやりそんなことを考えた。
はっきりものを考えたい気分ではなかった。

「ところで、橋の建築にはまだ取りかからないのか、とリーダーが言ってましたけど」

「もう、すぐだ。すぐ、だ」

「じゃ、もう少し待ってろって言っときますね。では!! また明日!!」

そしてマメパトは飛んで行く。それを見送りながら、彼は喉を鳴らして言語を切り替えた。
 ▼ 53 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/13 00:01:08 ID:01co36FA [2/70] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告





『スクリュードライバーを、頼む』

「お客さん昨日もこれ頼んだろ」

いつものバーのいつもの席に座って、彼はコートを脱いでいた。目の前ではそこはかとなく呆れ顔をしたレディアンがオレンの実を搾っている。
店には彼以外の客はいなかった。……それを確認してから入店したのだから、彼にとっては当然だった。

『あんた、何かあったのか? スクリュードライバーなんて度の強いやつ頼んで』

『早く、酔える』

『やっぱり何かあったのか。ガールフレンドのあの子かい?』

『違う』

店主の出してきたプレッツェルに手をつけながら、彼はテレビを見上げていた。画面は丁度ポケモンバトルを映していて、ドサイドンとダイオウドウが闘っていた。
レディアンはため息混じりに、搾ったオレンとウォッカを混ぜ合わせたものを彼に差し出した。彼はグラスをひっ掴んで、一気に飲み干す。

『もう、一杯』

頭がぐらぐらと揺さぶられる心地がした。プレッツェルに手を伸ばしたはずが、灰皿に指を突っ込んでいた。

『なああんた、やけ酒はいかんよ。せっかくあんな可愛い子と脈アリなんだ、体は大事にしなきゃ』

店主はそう言いながら、オレンに手をかけるレディアンを制した。それから自分でグラスを手に取り、おいしい水を注いで、その上に薄くウイスキーを浮かべる。

『今日は、これで終わりだ』

そう言った。
彼は差し出されたグラスを取って、口に含んだ。一口目は強いウイスキーを感じたが、すぐに水で薄まっていく。不満を込めた横目で店主を見たら、もう店を閉める準備をしていた。
 ▼ 54 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/13 00:02:15 ID:01co36FA [3/70] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告
───


あまり酔えなかったせいだろうか、昨晩は嫌な夢を見た。確か、ひたすら血の海の浅瀬を走る夢だった気がする。何かに追われていたのだったか。……彼はトイレの鏡と向かい合って自分の顔をメンテナンスしながら、今朝がたまで見ていた悪夢の内容を思い浮かべようと試みていた。正直、上手く出てこない。ただそれでも、足首を浸す血の生暖かさと、鼻の曲がりそうな臭いは、頭の中にこびりついていた。
トイレを出て職場に戻れば、もう大体の面子は揃っていた。上司もいつもの席に座っている。彼は後は、あの上司に許可を貰える建築業者を探し出すだけでいいのだ。

『ああ、ディット』

すれ違い様に、その上司から声をかけられた。脚を止める。

『悪いね、何か今日もグレース向こうで突っ張ってるってさ』

『別に』

それだけなら、と再び歩いた。
デスクに座りパソコンを立ち上げる。確か昨日目星をつけていたあの業者は、先に図面を見せなければならないんだったか。
彼は橋の設計図を表示した。画面の中の白黒のそれは、相変わらず完璧な構造だった。ウィークポイントを攻撃すれば橋の片側が落ち、山の斜面に従って橋は曲がり、その湾曲に耐えられずに橋のもう片方が外れる。そうすれば、橋は街まで滑って、転がって、落ちていく。それでいいのだ。

橋は潰す。街を潰す。まずジムを、トレーナーごと。そしてポケモンセンターを、施設ごと。その過程で。

『……』

この仕事場も潰れるだろう。当然、ここにいる上司同僚を伴って。そうでなければいけないのだ。
そしてその混乱に乗じて、ポケモン達は反逆する。空から、そして二本の道路から。煮えたぎる怒りは一人の生存者も許さない。トレーナーという後ろ楯を持たない野生にとって、人間を凌駕しうるのはこのタイミングだけだ。だからこそ、何としてでも全滅を狙うだろう。店に入り物資を潰し、ライフラインを停止させ、家々の壁を食い破って赤子だろうと殺すだろう。
それが復讐だと。それをされてきたのだと。高らかに権利を唱えながら。人の血を浴びて笑い、仲間の血を浴びて奮起するのだろう。

引き金を作っているのは、間違いなく彼だった。
 ▼ 55 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/13 00:03:14 ID:01co36FA [4/70] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告
『……』

『おい、ディット?』

コジョンドの顔が思い浮かぶ。彼女は待っている。彼が仕事を成し遂げて、帰還するのを待っている。復讐を心に決め、仲間を一つに纏め上げ、時が来るのを待っている。
彼女は成功するだろう。いくらかの犠牲を伴って。そして人間を打ち倒し、取り戻した大地に、彼女は堂々凱旋する。昔のように笑いながら。……彼女の元が、きっと、彼の帰るべき場所なのだ。それが、野生ポケモンとしての彼の喜びなのだ。

ああ、しかし。
それでも。
今のままがいいと、思ってしまうのは何故なのだろう。

『……おいディット!! 机!! 机!!』

……その声にはっとする。手元を見れば、知らず知らずに作っていた握り拳が、ほんのりとデスクにめり込んでいた。慌てて両手を上げれば、机の天板はみしりと言った。
いけない。気づかないうちに、大分力が籠ってしまっていたらしい。

『……悪い』

『いや、構わないさ。そいつも古いしね。にしてもディット、お前腕力凄いんだな』

『……』

首を竦めて、誤魔化すように苦笑いしながら、彼はまたパソコンの画面を見た。

余計なことを考えている場合ではない。彼は大袈裟に首を振って、胸一杯の不快感を黙らせる。この頃、ずっとこうだ。まるで冷静でいられない。どこかに普段の心を忘れてきてしまったのだろうか。
 ▼ 56 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/13 00:03:59 ID:01co36FA [5/70] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告





「北向きの道路、異常ありませんでした!!」

「そうか」

人目を避けようと入り込んだ路地裏で。マメパトは今日もまた、彼の右腕でその鳩胸を期待に震わせていた。
計画は順調だ。今日で襲撃のルート確認は終了したらしい。明日は参加する面子を確定させるのだろう。レジスタンスは皆、橋が出来上がるのを待っている。目の前のマメパトがそうであるように。

ふと、気になった。

「ああ」

「何でしょう?」

「あれを、どう思、う?」

路地裏から大通りに視線をやって、歩いている人間達を顎で示した。彼にとっては見慣れた風景だ。仕事に勤しむ者、家路を急ぐ者、ポケモンと共に歩く者。いつも通りの、いつもの人間。

「どう思うって、まあ、怖いですよねぇ」

マメパトはそう言う。

「だってあれ、いつ山に入ってくるか分かったもんじゃありませんもん。あんな残酷な仕打ちを出来るのに、今はあんな風に平然としてる。何考えてるのか分かったもんじゃありません」

とんでもなく残酷な生き物ですよ、とマメパトは続けた。ポケモンを殺しておきながら、それに感動すらしないと。当たり前のように殺してくると。それが怖いと。
違う、と言いかけて、慌てて飲み込んだ。
野生の仲間達にとっては、人間はそういう風にしか見えないのだから。

「メタモンさんもそう思いますよね?」

「……そう、だな」

「うんうん。いやぁ尊敬しますよ。人間の中で生活するなんて、普通気が狂っちゃいますって」

……それから二言三言交わして、彼はマメパトを空へと飛ばした。去っていく羽音を聞きながら、彼はマメパトの言葉を反芻する。
人間の中で生活していたら気が狂ってしまう。
なるほど。

「……ん"ん"っ』

確かにその通りだ。
 ▼ 57 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/13 00:04:36 ID:01co36FA [6/70] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告


『また、外の空気を吸ってきたのかい』

『まあ』

ビルの中に戻れば、上司は彼を呼び止めた。どうやら彼に用があるようで、上司は彼の隣まで歩み寄る。それから切り出した。

『実はだ、俺、この前上に呼ばれてたろ。人事異動があってね、向こうで働くことになったんだ』

休みになったあの日のことか。彼は小さく頷く。もうそんな季節か、と納得して、また少し自己嫌悪した。
上司はそんな彼の内心には気づかない。気づくべくもない。話を続けて、上司は彼に提案した。

『そこでだディット。君、この事務所のリーダーになってくれないかい』

昇進の誘いだった。
咄嗟に、彼は周囲を見回した。この事務所には、彼よりも長く働いている人間が大勢いる。しかし目に映るその誰もが、彼に微笑んでいた。

『他の皆は了承済みだ。君が一番働いてるからね』

『……いや』

断りかけて、しかし、断りきれない。
周りが信頼してくれている。それを、嬉しいと思ってしまった。誘いを断るのを、惜しいと思ってしまった。
壊さなければならない職場なのに。

言葉が詰まって、もう何も言えなかった。上司は話を終えたようで、自分の席に戻っていく。

『まあ、すぐにそうなるってわけでもない。しばらくしたらまたじっくり話す時も来るだろう。今は、仕事に集中してくれ。呼び止めて悪かったね』
 ▼ 58 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/13 00:05:30 ID:01co36FA [7/70] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告





『新作あるんだが、どうだい』

『スクリュードライバー』

「またかよ」

レディアンは小さく悪態をついた。少し悪いと思ったが、実際そういう気分ではなかった。
彼はいつものバーのいつもの席で、灰皿に映る己の顔を眺めていた。見慣れてしまった人間っぽい顔だ。それなりに仕事をして、それなりに付き合いもある、ごく普通の、人間の顔。
とても復讐者のそれではない。ただの人間の顔がそこにある。そうであってはならないはずだ。

『まあまあそうつれないこと言うなよあんたらしくない。ほら、奢るから。ちゃんと酔えるから』

『……わかった』

「よしきた」

レディアンは軽く羽をぱたつかせて、手近に置いていたキーの実を半分に切った。それを握り潰してシェイカーに果汁を注いでいく。同時に、何か見知らぬリキュールの瓶に手をかけている様子だった。
店主はレディアンを横目に少し考えてから、シュカの実を彼の肘の横に差し出した。
 ▼ 59 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/13 00:06:31 ID:01co36FA [8/70] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告
『なああんた。一体何があったんだ。随分疲れた顔をしてるじゃないか』

『……そうだな』

否定しない。全くその通りだ。今まで一緒にやってきたはずの平常心が何処かに家出してしまったようで、彼はどうしようもなく不安で、不快で、孤独だった。
だが相談してすっきりするなんてことは彼には許されていない。何しろ彼の目的は結局、目の前の顔見知りの殺害でもあるのだから。そうしなければならないのだ。

『まあ、誰にだって人に言えないことの二つ三つあるだろう。人間なんだから。でもまあ、なんだ、酒に逃げるのは良くない。この店で人死にが出ちゃ困る』

『だろう、な』

レディアンはシェイカーを振り終えたらしかった。グラスに濁った紫色のカクテルが注がれていく。

「出来たぞ」

『出来たらしいな』

そして、グラスは彼に届けられた。

『キーとウタンのカクテルだ。名前は……そうだな、街路灯だ。街路灯でどうだろう』

『ダサいと思うぞ』

「右に同じく」

『んー……まあ、取り敢えず、飲めよ』

言われるまでもない。彼はグラスを傾けた。
……変な味がした。いや、不味いという訳ではない。ただ、甘味と酸味ベースの中に辛味と渋味も鎮座していて、どれを味わうべきなのかよくわからないのだ。
しかし不思議と気分は落ち着いた。胸の痛みが引いた気がする。一体何が……ああ、キーの果汁を使っているからか。彼は一人納得して、グラスを置いて、背もたれに身を預けた。

『どうだ?』

『確かに、悪くない』
 ▼ 60 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/13 00:07:03 ID:01co36FA [9/70] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告
シュカの実を齧る。ふと、次にこれを食べられるのは何時だろうか、なんて考える。野生の仲間の元で、こいつにありつける日は来るだろうか。

人生の帰路に立たされている。彼は実感した。
いや、人間じゃないのだから、人生という言葉はおかしいのだが。

『……今日はもういい』

『もういいのかい』

『ああ。今晩は、普通に眠れそうだ』


ベッドに座る。窓の外から星は見えない。
桜色のコートをハンガーに掛けて、彼は眼を閉じた。
やらなければならないことがある。
待っている者がいる。
期待している者がいる。

コジョンドの顔を思い浮かべた。はっきりと思い出せることに安堵した。まだ、彼は彼女達の味方でいられるのだ。
成すべきことを成そう。そうするべきだ。
人間に復讐を。彼女の謳った復讐を。
例え、痛みを伴うとしても。

『……』

結局、彼は人間ではないのだから。
 ▼ 61 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/13 00:07:34 ID:01co36FA [10/70] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告
───


『……ま、ここならいいか!! よし、おっけー!!』

『……分かった』

少し酒を控えたせいだろうか。彼の仕事は久々にスムーズに進んでいた。ようやく建築業者の選び直しが終わったのだ。もう煩わしい一切は存在しない。後は予算等を送りつければ、それで終わり。
本当に、それで終わりだ。

パソコンを開く。メールを書こうとキーボードを叩く。
自分の指を見下ろした。
随分、この指にも世話になった。初めは怖い怖いと思っていたこれも、慣れてしまうと便利なものだ。……バラしてしまったら、もうこれともお別れだろう。元より、人間の死体を何やかんやしてどうにか真似たものだ。あの時何を見ていたかなんてどだい正確に思い出せる訳でもなし、医学書だけの情報で一から作るのも無理がある。
指だけではない。腕もそうだ、脚もそうだ、眼もそうだ。どれもこれも、今日でお別れだ。

書き上げたメールを送信した。本当にこれで終わりだった。
もう、ここでするべき仕事はなかった。すぐにでも山に向かうこともできた。

『……』

しかし、マメパトが今日もやってくるだろう。血を捧げよ、と声を上げながら。それまでは、ここで待っていよう。外は寒い。
彼は椅子の背もたれに深く身を預けた。
 ▼ 62 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/13 00:08:04 ID:01co36FA [11/70] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告





「お疲れ様ですメタモンさん!!」

「ああ」

「面子の確認終わりました!! 当初の計画通り動けそうです!!」

彼は頷いた。マメパトは昨日もそうだったように鳩胸を張っていた。その様子だけ見るのなら、自信満々で微笑ましいのだが。

「で、橋の具合はどうですか?」

「……」

もう発注した。明日にでも造られ始めるだろう。
……そう言いかけて、口ごもった。マメパトは首を傾げている。気まずかった。

「ああっ!! ガントルさんに早く戻ってこいって言われてるんだった!! じゃあ、これで!!」

幸運にも、マメパトはすぐに空へと飛び上がった。路地裏を飛び出して、街の果てまで向かっていく。
彼はそれを見送って、見慣れた雑居ビルにまた入った。
 ▼ 63 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/13 00:09:13 ID:01co36FA [12/70] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告


待った。何故戻ってきた? デスクについた彼はすぐに自問自答した。何故ここに戻る必要があった? もう仕事は終わっている。マメパトの後を追ってここを去ることだって出来たはずだ。そうだ。第一、何故マメパトに仕事は終わったと言えなかった? 言ってしまえば帰らなければいけないなんて考えていたのか? 帰るべき場所はあそこなのに?
……いや、違う。もしかしたら、先ほど送ったメールの返事が来るかもしれない。もしそうだったら、確認しないといけない。だから、ここに戻ってこなければならなかったのだ。

『……』

彼は小さく頷いて、パソコンを起動した。
また、自分が嫌になった。彼自身、無理矢理ここに居残る理由を探していることに気がついていた。
まるで誰かを待っているみたいじゃないか。……誰か? まるで分かっていないような言い方だ。本当は分かりきっているくせに。

『お疲れ様でーす!!』

『おうグレース!! どうだった、例のハウスメーカーのあれは』

『なんか向こうが根負けしたみたいで取り止めになったみたいです、開発工事!! やりましたよ私!!』

ああ、その見慣れた誰かが入ってくる。見慣れた笑顔を携えて。
しまった、と彼は考えた。しかし同時に、そう思う己を冷ややかに見下してもいた。何がしまった、だ、本当は、理屈をこねにこねて、彼女の顔が見られるのを、待っていたくせに。
 ▼ 64 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/13 00:09:44 ID:01co36FA [13/70] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告
『ディットさんディットさん!! 私、やりましたよ!!』

『……お疲れ』

今、自分はどんな顔をしているだろう。彼は考える。いつも通りの顔でいられているだろうか。そうでなければならないのだ。計画を悟られてはならないのだから。

『俺も、丁度、終わったところだ』

『そうなんですか!! お疲れ様です!!』

目の前で人間が笑っている。いつも通りの、人懐こい顔だ。……いつも通りの。
彼の日常は、ここにあった。

彼はふと、自分の右手が所在なさげに浮かんでいることに気がついた。まだグレースの顔は近くにあった。
きっと、彼女が目の前にいるのも、今日が最後だ。彼は思いきって、その右手を彼女の頭にやってみた。ぽふ、と気の抜けた音がして、オレンの香水の匂いがした。彼女は一瞬呆気に取られた顔をしたが、その口元は緩んでいた。

『……』

『……へへっ』


突然、パソコンから音がした。画面に目をやれば、本当に建築業者からメールがきていた。
内容は簡潔だった。明日山に向かうから、担当者の方も付き添って欲しい、と。……人間の姿は、もうしばらく必要そうだった。それに安堵している己に気づいて、自嘲するように笑う。どれだけ遅延行為を繰り返したところで人間の世界に居場所なんてない。気づいているだろう?
 ▼ 65 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/13 00:10:25 ID:01co36FA [14/70] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告





結局、日没まで居てしまった。
雑居ビルを出て空を見上げれば、珍しく星がはっきりと見えた。一つ、大きなため息を吐き出した。例え山ではもう少し仕事があるにしろ、このビルに戻ることはないだろう。お別れだ。
名残惜しいと感じてしまう。作り物の後ろ髪が引かれるのを感じている。別れを言うこともできない。
壊してしまえば、楽になるのだろうか。
仕事場を見上げた。カーテンが閉じられていて、中は何も見えなかった。

『あの、ディットさん』

背中に声をかけられた。
……彼女は、一足先に出ていたはずだったが。

『……グレース』

振り向けば、同僚はほんの少ししおらしい様子で、片手に紙袋を提げていた。灰色の何かが顔を覗かせていた。彼女は紙袋に手を差し入れて、その灰色を引き上げる。

『コート、直し終わりました。お待たせしました』

『そう、か。……ありがとう』

それは、元々彼が使っていた灰色のコートだった。左腕の辺りにワインレッドがちらついている。
そうだった。彼は自分の袖を見た。この桜色のコートは、彼女からの借り物だった。もうこれを着ている理由もない。彼はコートを脱いで、グレースに差し出した。彼女はそれを受け取って、灰色のコートを彼に差し出す。正方形に折り畳まれてアイロンもかけられたそれからは、グレースと同じ匂いがした。
当然、彼はコートを広げる。修繕されたのだ、着なければ意味がない。そう思って。
ばさりとコートをはためかせれば。

ごと、と何かが落ちる音がした。
 ▼ 66 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/13 00:11:04 ID:01co36FA [15/70] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告
『──あ』

箱だった。飾り気のない茶色い箱に、取って付けたように赤いリボンがしてあった。
しまった、と思った。
しかし彼は、それを拾わないわけにはいかなかった。恐る恐る手を伸ばして、つまみ上げる。怖いくらいに軽くって、肝が冷える心地がした。昨晩で鳴りを潜めた胸の痛みが、また鼓動を打ち始める。

『……これ、は』

『開けてください』

彼は迷った。開けるべきではないと、頭の中で何かが叫んでいる。指先が震えていた。
それでも彼は、覚束ない指でリボンを解いた。目の前で不安げにしている彼女の顔を見てしまうと、そうする選択肢しか残ってはいなかった。無いはずの心臓がきりきりと震えている。今にも逃げ出してしまいそうなくらい。それでも、箱を開けた。

見失っていた彼の心は、箱の中に転がっていた。
どことなく不格好で、簡素なハート型のチョコレート。装飾の一つもなく、茶色以外の色もなく、包装もただのラップだった。

『──』

『……自炊、あまりしてなかったので。その、下手ですけど』

味は大丈夫だ、と彼女は付け足した。

『……今日、何の日か、知ってますよ……ね?』

『──ああ』

今日は、バレンタインデーだ。
 ▼ 67 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/13 00:11:34 ID:01co36FA [16/70] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告
何も言えなかった。口の中が乾くのを感じた。全身が軋むように痛み始める。

『女の子にここまでやらせといて、何か一言、ないんですか』

何も言えない。
何も言えない。
彼の言葉は空虚である。
彼は人ではないのだから。
彼は目の前の彼女を殺すのだから。
彼はこの人間社会を壊すためにいるのだから。
彼はそう覚悟したのだから。

それでも。
手放せない。
手の上の重い重い心を、掴んでしまって離せない。
脚が震えている。
唇が震えている。
言葉は紡げない。
目の前で、女はやれやれと首を振った。

『むう。根性なし。タマついてんですかディットさん』

『……悪い』

『まあいいですよ。明日でも、明後日でも。ディットさん、なんか疲れた顔してますもんね。今日は幸せを噛み締めながらゆっくり休んでください』

彼女は笑っていた。
█しいと思った。
それに気がつきたくなくて、ディットは彼女に背を向けた。
 ▼ 68 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/13 00:12:15 ID:01co36FA [17/70] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告




雪山を登る。一歩ずつ。
星が綺麗だったので、上を向きながら歩いた。二重に煌めく星々が憎らしくて、胸の痛みは収まらない。
コートのポケットの中には、手付かずのチョコレートが入っていた。

「おっ、久し振りだね」

前方から声がした。視線を下ろせば、少し前に見た少年の姿が立っている。黒い尻尾が生えていた。

「……ゾロアか」

まだここにいたのか。その言葉を飲み込む。ここに滞在し続けているということは、多分、このポケモンもまたレジスタンスに加わるのだろう。人間を殺し復讐を果たし大地を取り戻そうと声を上げるのだろう。
それは喜ぶべきことだった。

「コート変えたの?」

「元々、こっちだ」

ディットはまた山を登ろうと歩き始めた。帰るべき家まで、あと少しだった。
ゾロアはそれを見送りかけて、ふと鼻をひくつかせる。それから、ディットに駆け寄った。
 ▼ 69 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/13 00:13:08 ID:01co36FA [18/70] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告
「待って待って待って」

「……何だ」

「何か匂うよ?」

そう言いながらゾロアは、修繕されたての灰色のコートに鼻を近づける。そして、ポケットから茶色い箱を引き抜いた。

「……チョコレートじゃんこれ!!」

知っているのか。そう呟けば、ゾロアは当然のように頷いた。いや、このゾロアもまた人間の中で生きてきたのだから、それは知っていて当然のことだった。

「大丈夫? これポケモン向けのやつじゃないよ? 捨てとこっか?」

「俺の、胃は、丈夫だ」

そう言いながら、ゾロアから箱を取り上げた。ポケットにしまう。その後で、多少強引に引き抜いてしまったことに気がついて、ディットは少し身を竦めた。
ゾロアは空になった自分の手をまじまじと眺めてから、目の前の人間っぽい顔を見つめる。口の端ににやりと笑みが浮かんでいた。

「……へー」

「何だ」

「何も?」
 ▼ 70 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/13 00:13:57 ID:01co36FA [19/70] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告
これ以上会話したくなかった。ディットはゾロアに背を向けて、また山道に向き直る。早く自分の部屋まで入ってしまいたかった。
だが、そうもいかなかった。
山の上から、コジョンドが降りてきていた。

「メタ!!」

登ってくる同胞に気づいた彼女は声を上げながら、ディットの元まで駆け寄った。そしてその顔を見上げる。星明かりを受けて、その瞳は輝いていた。

「……終わったんだな?」

「発注は、終了した」

「なら──」

「だが、まだ業者との、話し合いは、必要だ」

だからまだ人間の姿が必要だ。ディットがそう言えば、コジョンドは露骨に肩を落とした。身長すら少し縮んだようだった。そして視線を落とした彼女は、ディットの服装が変わっていることに気がついた。

「……服、戻ったのか」

「ああ」

コートから香る匂いに顔をしかめて、コジョンドはため息を一つした。彼女はこの匂いが嫌いだった。昔馴染みにいつも付きまとっているこの匂いが。
しかし、嫌っていたからか。
その匂いの中に混じる、別の何かにも気がついた。甘い香りが、コートから微かに漏れていた。

コジョンドはディットのコートに手を差し込んで、ポケットから少し顔を出していた茶色い箱を取り出そうとした。ゾロアにも同じ事をやられていたディットは、咄嗟に箱を手で庇った。
二つの手が弾きあって、こぼれた箱の中身が地面に落ちた。
 ▼ 71 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/13 00:15:06 ID:01co36FA [20/70] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告
「……それは?」

ハート型のチョコレート。
ディットはそれを拾い上げて、割れていなかったことに目を細めた。また箱にしまう。

「それは何だと聞いているんだ、メタ」

コジョンドは人間のようなその顔を見上げていた。ディットはそれに気づいていたが、彼女の質問に答える気分にはならなかった。どうせ、彼女はこれを知らないだろうから。
ディットは今度こそ山道を登り始める。ざくざくと砂利が音を立てた。早く横になりたかった。まだ胸は痛んでいた。


「……それが、チョコレートというやつなのか」

「……どうし、て」


振り向いた。
コジョンドはまだ、まっすぐにディットを見上げていた。

「ゾロアから聞いた。人間にはバレンタインなる習慣があると」

辺りを見回す。さっき会話したゾロアはもう何処かに行ってしまったようで、もう姿も見えない。

「愛する人にチョコレートだかいうものを送るのだと」

胸の痛みがますます激しくなった。知らず知らずの内に、片手でポケットを庇っていた。

「人間の習慣なんて、と思っていたが」

コジョンドが一歩近づいた。
反射的にディットは後ずさってしまって、砂利ががさりと音を立てた。
コジョンドが息を飲むのが、音で分かった。
 ▼ 72 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/13 00:16:13 ID:01co36FA [21/70] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告
「まさか、まさかだが」

「……」

「お前、まさかとは、まさかとは思うが、お前、人間にでもなったつもりなのか? 私達をあれだけ苦しめた? 人間を、お前、誰か人間のことを、好きに──」

「俺は」

彼女の言葉を、強く遮った。

「俺は、ここにいる」

それが全てだ。

「……そうだよな」

コジョンドは後ずさった。取って付けたように苦笑いして、首を振った。
例え人間の世界で何があったとしても。同胞はここにいる。任務を終えて、そしてその過程で得た人間としての全てをかなぐり捨てて、戻ってきてくれたのだ。だから、目の前のヒトガタは人間などではない。
恐れることなんてなにもない。

「そうだよな。ああ……私がどうかしていた」

「……」

「お前は、ポケモンだもんな。私と同じ。ああ、そうだ。お前はポケモンだ。人間じゃない。ここにいる。人間じゃない、人間じゃない──」
 ▼ 73 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/13 00:17:33 ID:01co36FA [22/70] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告





脱いだコートを、寝台の上に放り投げた。
ポケットの中の茶色い箱のせいか、コートはごと、と音を立てた。
自室に戻ってきたディットは、暖炉に隣室から取った火を移す。ぱちぱちと火花が舞って、部屋は薄明かりに包まれた。

コートの中に手を突き入れた。箱を引き抜く。
開けてみれば、まだ心はそこにあった。

「……」

ラップを剥く。砂糖の匂いが辺りに漂い始める。
ディットは少し躊躇って、それから、チョコレートのハートに齧りついた。
随分、甘かった。大分砂糖を入れたのだろう。そんなに甘党に思われていたのだろうか。……少し前に、彼女の前でコーヒーに砂糖を入れたのを思い出した。あのことを、覚えていたのだろうか。

気づけば、チョコレートは口の中ですっかり溶けてしまっていた。甘ったるいそれを飲み下して、ディットはまた一口チョコレートを齧る。
このチョコレートの、作り手のことが思い出される。ディットよりちょっと先輩で、でも立場的には同類で、ディットに敬意を払っていて、でも友達感覚でやってきた、可愛らしい人間のことが。

また一口。
彼女の声を思い出す。ちょっと気を抜いていると、どこかから飛んでくる、よく通る声。職場にいても、出歩いていても、いつも、その声がどこかから聞こえてくるんじゃないかと、そんな心地さえさせる声だった。まだ耳に残っている。

また一口。
彼女の顔を思い出す。可愛らしい顔だった。眺めていて飽きない顔だった。大抵は笑顔だったけれど、理不尽に怒り、酒を飲んで泣き、気持ち良さそうに眠る、彼女はそんな人間だった。その全部が、まだ頭に残っている。

また一口。
彼女の意思を思い出す。彼女は極端だった。だからこそ彼女はあの職場にいて、戦っていた。彼女は優しかった。その優しさは野生ポケモンにとっては手遅れだったし、他の人間にとっては迷惑だったけれど、確かに彼女は優しかった。今ディットの口を埋め尽くすくどいくらいの甘味も、確かに彼女の優しさだった。ディットはそれを知っていた。

また一口。
彼女の言葉を思い出す。敬語だけれど砕けた感じの、でも不快感はない、そんな言葉達を。彼女は強引で、愉快で、感傷的で、愛らしかった。

もう一口。
……ディットは、それが最後の一口であることに気がついた。チョコレートはもう一欠け分しか残っていない。
これで終わりだ。
一思いに口に入れて、舌の上で転がした。このチョコレートを寄越した時の、グレースの姿を思い出した。しおらしげだった彼女の姿。ディットを根性なしと笑った彼女の姿。
ああ。
愛しいと思った彼女の姿。
 ▼ 74 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/13 00:18:07 ID:01co36FA [23/70] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告
「……っ」

はじめて、涙をこぼした。
石の床に、一つ二つと染みが浮かぶ。

とうとう、自覚してしまった。今までずっと避けていたのに、今になって。
そうだ。
愛していた。
あの人間のことを。極端で、むちゃくちゃで、酒癖が悪くて、それでもずっと一緒にいたあの人間を。
……最悪だ。
彼女のことが、好きだったのだ。

漏れそうな嗚咽を、喉の中に押し留める。もう、チョコレートは残っていない。ディットはラップを暖炉に放り投げた。茶色い箱もそうしようかと思ったが、どうしても棄てがたくて、部屋の隅に押しやった。
代わりに、成人向け雑誌を暖炉の前まで持ってくる。服を脱いで、自分の体と、雑誌の中の人間を見比べた。腕。人間に似ていた。腹。人間に似ていた。脚。人間に似ていた。
それでも。
脚の付け根、股間の辺りに目を向ける。人間ならば、人間らしい部位が一つあるはずの場所。
ない。
ない。
ないのである。
そこには何もない。どうせ見られることはないからと、何もそこには作らなかった。ただのっぺりとした、人間に似た肌があるだけ。

結局、どう取り繕って、どれだけ人間っぽい年月を重ねても。それでもディットは人間ではない。どう足掻いても、一匹のメタモンなのだ。
人間を愛してしまっても、人間の世界にディットの居場所はどこにもないのだ。人間の世界が受け入れるのは人間であって、人間擬きのメタモンではない。誰も本当のディットを受け入れたりはしない。あそこには、いられない。
帰るべき場所はここだった。この薄明かりの中。このレジスタンスの中。本当の居場所は、ここだけだ。ディットだった者の未来は、人間の血の向こうにある。愛した者の未来を奪った、その先に。

……メタモンは泣いていた。
作り物の腕でいくら涙を拭っても、とめどなく、とめどなく、それは床を濡らしていた。
 ▼ 75 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/13 00:22:02 ID:01co36FA [24/70] NGネーム登録 NGID登録 wf 報告
───


朝日が目に染みた。
メタモンが洞穴の外に出れば、見慣れたマメパトがコジョンドと話していた。

「工事に伴う人間侵入の注意喚起、終わりました!!」

「助かる」

内容は、今日やってくるだろう建築業者について。こうして周知させておかないと、ポケモン達が勝手に業者の人員を襲ってしまいかねなかった。
洞穴から仲間が出てきたことに足音で気がついて、コジョンドはくるりと振り向く。

「ああメタ、おはよう」

「おはようございますメタモンさん!! 任務、ご苦労様でした!!」

「……ああ」

コジョンドは、昨晩のことなどすっかり忘れたかのように、冷静さを取り戻していたように見えた。彼女はメタモンに軽く挨拶してから、いつ頃建築業者が侵入してくるか問う。

「太陽が、昇りきる前には、もう、重機の、類いは、来るだろ、う」

「そうか」

メタモンが答えれば彼女はそれだけ言って、洞穴の中へと入っていった。
残されたマメパトの方も、用事が済んだからか空へと飛び出して、山の中腹辺りまで飛んでいく。耳を澄ませれば、もうポケモン達は各々に起きていて、いつものように生活を始めていた。
メタモンにもまだ仕事があった。山を照らす太陽を軽く見上げてから、工事現場となるだろう場所へと歩いていく。
 ▼ 76 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/13 00:22:51 ID:01co36FA [25/70] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告





『それでは、よろしくお願いします』

『……お願い、します』

鉄骨やらコンクリートやらを運び込んできた建築業者の面々は、メタモンといくらか言葉を交わして、すぐに作業に取り掛かった。
山の地面に柱を打ち立て、固定し、そこに鉄骨を渡す。構造としては至ってシンプル。ポケモンの力を借りるなら、橋の建築はそう長い時間のかかる工事ではない。長く見積もって二週間で終わるか、なんて彼は考えていた。
人間が山の間を行き来する。ドテッコツやら、ギガイアスやらを引き連れて。……遠くの方でポケモンの声がした。泣いていた。この中に、顔見知りでもいたのだろうか。

「あのドテッコツ、生き別れの息子らしい」

低木の茂みから、ガントルが顔を出した。メタモンはそれに少し驚いたが、すぐにその生き別れの息子とやらを探し始めた。まあ、親以外には見分けのつきようもないのだが。

『ん"っ……そうなの、か」

「僕の親も、人間に捕まった。あるいはあのギガイアス辺り、実は弟だったりするかもしれない」

「……」

「ところでメタモン。あの人間達は、ここで寝泊まりするのかい? それとも毎晩下山するのか?」
 ▼ 77 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/13 00:23:25 ID:01co36FA [26/70] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告
ガントルは続けてそんなことを言った。建築業者の周りを見渡す。重機、重機、重機。それだけだった。寝泊まりするための施設は見られない。

「プレハブ小屋とか、ないから、普通、下りるだろ」

「僕はお前と違って人間に慣れてなんてないから、人間の普通なんて分からないんだけど」

「……悪い」

「いや。今のは僕が意地悪なことを言った」

ガントルは肩を揺らした。メタモンは作り物の心臓がきゅうと縮むのを感じて、何とも形容しがたい不快感に襲われていた。ガントルは頭も回るし悪い奴ではないのだが、こういう所が油断ならなかった。

「……」

「任務の邪魔だったね。後でまた会おう、メタモン。今晩はお前の仕事を労ってやる」
 ▼ 78 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/13 00:24:05 ID:01co36FA [27/70] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告





日が落ちて業者が撤収するまで、メタモンはずっと工事を監視していた。業者がポケモンに危害を加える心配よりも、むしろ自制心を失くしたポケモンが工事の妨害にかかることを恐れてのことだった。
掘り返された土の匂いがする、工事現場を覗き込む。昨日まで生えていただろう草花は剥ぎ取られ、ただそこには石と土だけがあった。遠くから誰かが咽び泣くのが聞こえてきた。

工事現場を離れて、洞穴へと向かう。
その途中で、ゾロアを見かけた。

「──それでだね、僕らは人間の使うトイレに逃げ込んだのさ。で、イリュージョンを解除して、反対側の窓から飛び出した。でも人間は馬鹿だからね、僕らがトイレから出て、人間のすぐ後ろを通っても、まだ僕がトイレの中にいると思ってるんだ!!」

「はっははは!! こりゃあいい!! ざまぁないね!!」

「それでそれで、どうなったんだい?」

どうやら他のポケモンと談笑している様子だった。あのゾロアも人間の中で生きてきたんだ、滔々と語れる武勇伝もそれなりにあるだろう。
……それを見てメタモンは一瞬、昨日のコジョンドを思い返した。何故彼女にバレンタインのことを教えたのかとゾロアに問い詰めたくなって、怒りを胸の底に覚えて、しかし大きく深呼吸する。……あのポケモンには、文句を言われる筋合いなどない。ただバレンタインというものがあるという事実を、たまたま伝えていただけなのだから。悪くない。何も悪くない。第一、今苛立っている己の方がよっぽど可笑しいのだ。何故怒る必要がある? コジョンドがバレンタインについて知っていようといまいと、何も、何も変わらないじゃないか。
頭を振った。人間に似せた頭を振った。

山道の向こう側に、ガントルがいたのに気がついた。どうやらメタモンを呼んでいるらしかった。
 ▼ 79 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/13 00:24:40 ID:01co36FA [28/70] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告


「ちょっとした慰労会だ」

ガントルに呼ばれて山を少し下れば、石のテーブルの上に木の実がいくつか並んでいた。シュカの実もあった。

「まだ、終わって、ない」

「それでも、お前はよくやった」

促されるままに、倒れた丸太に腰掛ける。テーブルの反対側にはガントルが腰を下ろして、ウェイター役らしきオオタチがメタモンの前に木のコップを、ガントルの前に平皿を添えた。
アルコールの臭いがした。どうやって取り寄せたのか、ツボツボお手製の濁酒らしかった。

「助かる」

コップを掴んで、少し上に上げた。乾杯のつもりだったが、それは目の前のポケモンの知らない人間の文化だった。ガントルはちびちびと平皿から濁酒を啜っている。メタモンは少し自分を恥じてから、コップをぐいと傾けた。
美味かった。ただ、これを毎日呑む気分にはなれないだろう……そんなことを考えた。

「聞かせてくれ、メタモン。人間の世界で、何を見てきた」

「……色々だ」

人間が山ほどいた。人間の築いた文化があった。本というもの、テレビというもの、映画というもの、多くのものを見てきた。ここより美味い酒があった。そんなことをぽつぽつと語って、ふいに話しすぎたような焦りを覚えて口を閉じた。
沈黙が二人の間に沈んできた。

「僕は、正直お前を疑っていたんだ」

それを振り払うように、ガントルは切り出した。

「ある日、お前がコロッと人間の味方になっちまって、このレジスタンスとの縁を切るんじゃないかって、そんな疑念をずっと持っていた」

リーダーが怖くて口には出せなかったが、と、平皿の酒を啜りながら幹部は続ける。
 ▼ 80 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/13 00:25:28 ID:01co36FA [29/70] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告
「だが確認する方法もなかった。お前に直接聞いても意味はないし、監視させようにも誰も人間の見分けなんてつかない」

「そう、だな」

「だから、もっともらしい理由をつけてマメパトに監視を頼めるようになるまで、僕は祈るしかなかった」

あれは監視だったのか。メタモンは肩を竦めて、コートの襟に口元を隠した。ガントルから目線を逸らして、シュカの実を齧る。街のバーで食べたそれよりも、少し雑味が多かった。

「俺は、お前が、怖いよ」

「僕もそう思う。リーダーみたいに、ただ信じてやれるなら、楽なんだけど」

それから、ありがとうとガントルは言った。任務をきっちりとこなして、帰ってきてくれたことに対する感謝だった。

「疑っていて、悪かった」

「……悪く、ないさ」

メタモンは首を振った。
怒りも悲しみも浮かばなかった。ガントルと同じ疑いを、自分自身に抱いていたからだった。

どこかから、歌が聞こえてきた。以前、コジョンドが決起集会をした時と同じ歌だ。命を賭して戦おうという、そんな歌。
……ぼんやりと耳を傾けていたら、遠くの歌と同じフレーズが目の前から聞こえてきた。メタモンは目を丸くした。ガントルが、ぼそぼそと低い声で歌っていたからだった。

「──昇る月の下。月の下で。さあ爪を研ごう、月の下で」

「……驚いた。お前、歌うの、か」

「僕を何だと思ってるんだ」

今時あれを歌えないと浮くよ、とガントルは続けた。人間の世界とは違って、山の中に娯楽は少ないからね、と。

「練習してみるかい、あれ」

「いや、俺は……ああ、そうだ、な。俺も、レジスタンスだ」

メタモンは頷いた。頭の中にグレースの姿が思い浮かんだが、見ないふりをした。
どんな姿をしていようとメタモンがポケモンであることは変えがたく、またレジスタンスの一員であることもそうだった。いや、コジョンドの計らいで幹部になっているんだったか。とにかく、あの歌は歌えて然るべきものだった。

「──愛した大地は、今はもう亡い、今はもう今はもう、人がいるだけ。仲間も家族も、誇りも潰え、それでも立てるか、月の下で」

「昇る月の下。月の下で。さあ爪を研ごう、月の下、で──」
 ▼ 81 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/13 00:26:00 ID:01co36FA [30/70] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告





歌は、雪山の冷たい空気の底を這って、ぼんやりと洞穴まで届いていた。
洞穴の奥の自室に籠っていたコジョンドも、その歌を聞いていた。しかし目を閉じて、壁に身を預けた彼女の脳裏に往来するのは、かつて失った家族でもなく、これから訪れるだろう人間との戦いでもなく。

昨日見た、チョコレートを庇うメタモンの顔だった。
朝は取り繕うことが出来たが。彼女は、あの人間みたいな顔を思い返す度に、胸の奥底に不快感が煮えたぎって泣きそうになるのだった。メタモンがレジスタンスの味方で、自分の味方であると信じていたが、それとこれとは別だった。
ああいう顔を、彼女は知っていた。彼女がメタモンのことを思った時にする顔と、似通っていたから。
恋心を取り繕う顔だった。

「なんで」

なんで、人間なんだ。彼女は奥歯を噛み締める。
自分でないことは、まあ許せなくもなかった。しかし、なんで、よりにもよって。よりにもよって、人間なんだ。
……よりにもよって?
メタモンは、何年も人間の中で生きてきたのに? そうしてくれと頼んだのは自分なのに?
そんな自問自答を振り払うように首を振る。しかしそれでも言葉は沸き上がるのだ。昔の喋り方はどんな風だった? 元の姿のメタモンを思い出せる? どんな風に笑っていた?
思い出せない。
どれも、思い出せない。
そのことが悔しくて、声を殺して泣いた。メタモンが人間を愛してしまったのだとしたら、それは自分のせいなのだと。同時に、人間への憎しみは更に膨れ上がる。
そして思うのだ。なんで、人間なんだ、と。

もう、ずっとそれを繰り返していた。
 ▼ 82 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/13 00:26:37 ID:01co36FA [31/70] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告
───





「工事は順調みたいですね!!」

腕に止まったマメパトがそう言った。メタモンは軽く頷いて、音を立てる重機に目をやった。陽光に照らされた工事現場。ガリガリガリと大地を抉る振動が体の芯を揺さぶって、メタモンはほんのりと吐き気を覚えていた。

『ドテッコツ!! あの鉄骨持ってきてくれ!!』

「あいよ!!」

仕事を眺める。人間とポケモンの共同作業を。メタモンにとっては散々街で見てきたものだったが、腕に止まっているマメパトにとってはどうにも信じがたいようで、その丸い目を何度もぱちくりとさせていた。

「何であのポケモン達は、人間に反逆しないんでしょうね?」

「……」

その問いには答えない。きっとメタモンがどう答えたところで、マメパトが満足する答えにはならないだろう。

「やっぱり、モンスターボールがいけないんですかねぇ。それとも、麻薬でも毎日盛られてるんでしょうか」

もしかしたらそうかもしれない。でも、きっとそうではない。メタモンは口を真一文字に結んだまま、うんともすんとも言わず、ただ工事現場を眺めていた。
まだ重機は地面を削っていた。メタモンは気が滅入ってきて、少し席を外そうと思った。

昨日と同じ咽び泣きが、遠くから聞こえてきた。

「マメパト」

「何です?」

「見てきて、やってくれ」

「了解しましたー」

腕から飛び立っていくマメパトを見て、ため息を一つ。目下の心配事は、ドテッコツの親らしいあの咽び泣きの主が、自棄を起こして工事現場に突撃することだった。あと吐き気。
よろよろと重機から遠ざかって、近くの木に手をついた。枝に乗っていた雪がばさりと落ちた。かはかはと咳をしてみたが、何かが出てくるというわけでもなかった。
 ▼ 83 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/13 00:27:45 ID:01co36FA [32/70] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告





何事もなく、その日の工事も終わりを告げる。業者は撤収していき、後には作りかけの基礎だけが残っていた。
空を見上げれば、灰色の雲が近づいてきていた。今晩は酷い雪になるだろう。
メタモンは彼の仕事場を後にして、洞穴への道を行く。既にそのコートの肩には、うっすらと雪が乗っていた。

とぼとぼと歩く。まだ日は沈んだばかりであった。少し前までなら、まだ寝るなんて考えられないような時間だった。山から遠くを見れば、街にはもう灯りが点っている。メタモンは昨日のガントルの言葉を思い返していた。なるほどここには娯楽がない。
アルコールが欲しくなった。だがそんな贅沢を言えるほど、メタモンの気は大きくなかった。

洞穴に辿り着く。丁度コジョンドが、自室から出てきたところだった。

「……お疲れ、コジョ」

「あ、ああ……お疲れ」

それだけ言葉を交わして、自室に入る。……暖炉の火が無いことを思い出して、一瞬コジョンドの部屋に入って火種を借りた。明日からは火種管理役のノコッチにこの暖炉の管理も頼もう、なんて考えた。

火の前に腰掛ける。ぱちぱちと音を立て始めたそれに、メタモンは冷えきった手を向けた。……逆光で手が紫色に見えて、慌てて確認してしまう。よくよく見れば、ただの人間のようなそれのままだった。

「……はぁ」

ため息を吐いた。今さら手の色がどうなっていようが、工事が滞るわけでもなし、何も気にすることなどないのに。

意味もなく狭い部屋を見回せば、部屋の隅の茶色い箱に目がついた。気づけば手に取っていた。
眺める。何の変哲もないただの紙の箱。
……もしかしたら、空箱のままだとノコッチに捨てられてしまうかもしれない。ふとそんな疑念が浮かんで、同じく部屋の隅にあった手鏡を箱に仕舞った。

またため息を吐いた。
気づけば、人間のことを思い出している。
メタモンはもう空ではない箱を部屋の隅に押しやって、ベッドに上がって暖炉を消した。消してからノコッチに管理を頼もうと思っていたことを思い出して、少し後悔した。
眠くない目を閉じる。グレースの顔が勝手に浮かんできて、慌てて昨晩の歌の歌詞を思い出し始めた。
 ▼ 84 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/13 00:28:46 ID:01co36FA [33/70] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告
───


……目を覚まして、メタモンは寝台の上で身震いした。明らかに寒い。
コートを羽織って部屋を出てみれば、洞穴の外は真っ白だった。雪が降っている最中だった。地面は新雪で覆われていたし、木々も白く化粧して、いい眺めだと思った。ただ問題は、メタモンの仕事は外を眺めることではなく、外に出ることだったということだ。

外に一歩踏み出して、また身震いする。コートを自分で抱き寄せて、そしてメタモンは歩き始めた。ぎゅむっ、と新雪を踏み締める感触を確かめる。ここまでの大雪は久々だ。こうするのはいつぶりだろうか。
山の少し下の方では、幼いオタチとクマシュンが、ゾロアと共に戯れていた。生憎、山の上だと滑りやすかったり、スペースがなかったり、どうしても土が混ざってしまったりで、雪合戦やらの大規模な遊びは出来ないのだが。……昔、まだ麓が安全だった頃に、まだコジョフーだったコジョンドと一緒に真っ白な雪をひたすらに積み上げて、その上に飛び込んで遊んだことを思い出した。森の方には、まだ同じことが出来るスペースが残っているのだろうか。

そう考えているうちに、工事現場についていた。……今日、建築業者は来るだろうか。契約上は雨天でも作業はするという話だが、雪の場合の話はしていない。工事は早く進めなければならないが事故を起こされても困る。
メタモンは困っていた。確認を取ろうにも携帯電話の類いは持ち合わせていない。

しかし。
そう思った時には、もうトラックの前照灯が見え始めていた。

「来るのか……」

メタモンは一つ大きく身震いして、それからコートの肩と裾の雪を払った。トラックがいつもの場所で停車する。今日は確か追加の鉄骨を運び込んでくる手筈だったが。

トラックの荷台から、一人人間が飛び降りてくるのが見えた。
どうやら女性らしかった。外の寒さに身震いして髪を揺らす様には、見覚えがあった。雪の中に舞い降りた人間は、メタモンの姿を見つけると、一直線に近づいてくる。そして口を開いた。

『やっぱりここにいたんですね、ディットさん!!』

「……っ!?」

グレースだった。
 ▼ 85 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/13 00:29:32 ID:01co36FA [34/70] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告
『何で全然あっちに顔出さないんですかディットさん!! いやちゃんと仕事してるっぽいのはあの人達から聞いてたので知ってますけど、皆心配してましたよ何かあったのかって!!』

「っ、げほっ、げほっ、がっ、ん"ん"っ"、ん"、んん』

『いやなんか聞いてはいましたよ? 工事の都合で山に行くことが多い、って。でも多い、です。山籠りしてるなんて聞いてませんよ!! 修行僧にでもなったんですか!?』

『悪い、悪い、ん"っ、悪かっ、た』

一気に詰め寄ってきたグレースを両手で牽制しながら、メタモンは思い切り咳き込んだ。

どうやら、彼女は業者に頼み込んで、資材を積んだトラックに同乗していたらしかった。ある日突然山に引きこもった同僚に会いに。
一体何なんですか、と彼女は言った。メタモンは無意識のうちに、コートの襟に口元を隠していた。二人を見ながら、業者の面々は痴話喧嘩だと笑っていた。
とりあえず、近くの丸太に彼女を座らせた。それからメタモン自身も腰掛ける。何だか不安になって辺りを見回したが、降り続ける雪で遠くまでは見えなかった。

『大体ディットさんどこで寝泊まりしてるんですか。何食べてるんです?』

……それを聞かれるだろうとは思っていたが、メタモンは返事に困っていた。まさか、洞穴でポケモン達と同居してますなんて言っても信じては貰えないだろう。信じられてしまってもそれはそれで困る。

『……それは、その』

言い淀む。上手い言い訳など思い付くはずもない。だんまりを決め込むしかなかった。
 ▼ 86 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/13 00:30:06 ID:01co36FA [35/70] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告
『……』

『……』

互いに黙って、何分かした。
おもむろにグレースは立ち上がった。トラックの荷台にのそのそ入っていって、いくつか物を持って戻ってくる。彼女は一つ、白い袋を投げ渡した。メタモンが受け取ってみれば、それはカイロだった。

『私は普通に寒いですよ。お汁粉持ってきたんですけど、飲みます?』

彼女はそうも言った。カイロを懐に差し込みながは頷けば、グレースは小さなスチール缶を投げつけてきた。キャッチする。
並んで丸太に座って、プルタブを引いた。カシュッと音がして、湯気が立ち上ってきた。二人で工事を眺めれば、鉄骨が基礎に固定されている最中だった。寒いのによくやるな、と他人事みたいに考えた。数日ぶりの人間の甘味は、なんだか泣きたくなる味だった。

『で。明日も明後日も経ちましたが』

……ついに、それを切り出されてしまった。
横目でグレースを見れば、彼女もはふはふとお汁粉を啜っていた。

『いつまで待たせるんですか』

『……悪い』

彼女は催促していた。
あのチョコレートの返事を。

『山に籠ってまで、答えたくなかったんですか。私これでも気にしてるんですよ』

『美味かった』

『あっ、よかった、ありがとうございます。……じゃなくて!!』
 ▼ 87 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/13 00:30:52 ID:01co36FA [36/70] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告
どう答えるべきかは、メタモンにもわかっている。
断ればいい。適当に、好みじゃないとかなんとか理由をつけて、断ればいい。それだけで済む話だ。そうすれば多分、彼女がこうして山までやってくることも、詮索することもなくなるはずだ。

嫌だった。

沈黙する。ただただ沈黙する。肩に積もった雪の重さで、凍りついてしまう心地がした。

また、グレースは立ち上がった。隣のコートに乗った白い重りを手で払って、トラックの荷台へと入っていく。
次に出てきた時には、大きな毛布を抱えていた。

『邪魔だろ』

『どうせデッドスペースだった場所だからいいんですよ』

彼女はまたメタモンの隣に腰掛けた。それから毛布を大きく広げて、ほっ、と二人の肩に被せた。二つの人型が、大柄な一つのシルエットになった。

『……まあ、ディットさんがこんだけ焦らしてくるってことは、断りたいけど断れない理由があるのか、受けたいけど受けられない理由があるってことなんでしょう』

『……』

『とりあえず今は、貴方のお隣でプレッシャーを放っておくことにします』

……沈黙は雄弁だった。
メタモンはそう彼女が思い至ってくれたことを喜んで、そして、喜んでしまった自分を恥じた。
肩に人間の重みがのし掛かってくる。柔らかくて、暖かかった。また自分を恥じた。メタモンの体より柔らかいものなどそうそう無いだろう、と。

『……いい橋ですね』

隣で彼女が言った。何も知らない彼女が言った。

『完成が楽しみです』

『……そうだ、な』
 ▼ 88 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/13 00:31:55 ID:01co36FA [37/70] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告





何時間経っただろうか。工事はずっと続いていた。雪はずっと降っていた。風はずっと吹いていた。業者の面々が昼食を食べているのは見えたから昼は過ぎているらしかったが、メタモンにはそれ以上のことは分からなかった。
何度も周りを見渡した。この雪のせいか、マメパトもガントルも来る気配はしなかった。幸運だった。

気づけば、グレースは隣で眠っていた。寝息を立てる彼女を可愛らしいと思ってしまって、メタモンは目を閉じた。次に目を開ければ、そこにあるのは殺すべき人間の顔だった。
そうだ。ここで殺してしまえばいい。彼女は人間で、非力だ。首の骨を折るなんて簡単だ。腹を割くなんて簡単だ。いや、それすらも必要ない。毛布を外して、後ろの雪の中に落としてしまえば勝手に凍死するだろう。

『……』

そんなことを考えたが、出来やしないことはメタモン自身理解していた。彼女の首筋に指を添えてはみたが、そのまま締めるなんて到底出来ない。
その手を肩までずり落として、彼女の肩を揺さぶった。

『……寝るな』

『──はっ!! えっ私寝てました!?』

『ああ』

目を覚ましたグレースは、慌てて頭を振って積もった雪を払い落とした。ばさばさと髪が揺れて、メタモンの肩にも当たった。
工事現場を見れば、もう人々は撤収の準備にかかっていた。空を見上げれば、雪雲はさっきより幾らか薄暗い。知らないうちに、夕方になっていたようだった。

『ディットさん』

『何だ』

『一緒に降りましょうよ』

彼女は被っていた毛布を回収しながら呟いた。資材を下ろしたトラックには、二人入っても十分なだけのスペースがあった。
彼女は荷台の縁に腰掛けて、また同じ事を言った。
……頷きかけて、メタモンは取り消すように首を振った。そうしてはならなかった。メタモンは信頼されていた。この山のポケモン達に。勝手に動くわけにはいかなかった。

『本当にここで寝てるんですかディットさん』

『……』

『まあ、仕方ないですね。凍死しないでくださいよ? また今度、様子を見に来ます』

エンジンがかかるのが、音でわかった。彼女は街に帰っていくのだろう。

グレースが荷台の奥に下がるのを、彼は黙って見送っていた。
 ▼ 89 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/13 00:33:22 ID:01co36FA [38/70] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告





「駄目だ」

きっぱりと、コジョンドはそう言った。
一旦山から街に戻りたいと言った、彼に対してのことだった。

「……だとは、思った」

彼はコートを羽織直して、口元を襟に隠した。洞穴の中、彼にいきなり話しかけられたのが余程気に障ったのか、あるいは報告の内容が不快だったのか、コジョンドはひげをひくつかせていた。
彼はコジョンドに、職場の人間が訪ねてきたと話していた。……グレースとのことは極力ぼかして。レジスタンスの一員として、報告はしなければならないという焦りがあった。胸が傷んだ。

「人間の元に戻る? 何でそんなことをする必要がある。もう人間の隣でやるようなことは何もないだろう。もう人間なんかの側にいて余計な危険を犯す必要はないんだ。人間は危険だ。忘れたのかメタ?」

「……」

「それにだ。橋はどうする。あれは私達にとって重要なものだ。しかしどうしても人間を使わなければならない。人間は誰が監視する?」

「……」

コジョンドはまくし立てる。彼に詰め寄りながら。洞穴の壁まで追い立てられて、彼は何も言わなかった。
彼女は怒っていた。彼は身を縮めて、とりあえずやり過ごそうと努めていた。

「リーダー」

脇で見ていたガントルが、窘めるように言った。

「メタモンの意見は正しい。万全を期すべきだ。変に人間に疑われて不安要素を増やすより、ここはもう一度下山してもらう方がいいよ」

「だが、しかし──」

「人間の監視役は僕が買って出よう。どうせ暇だったんだ」
 ▼ 90 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/13 00:33:56 ID:01co36FA [39/70] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告
そう言われても、コジョンドは首を横に振る。駄目だ、駄目だと、半ばうわ言のように繰り返した。

「駄目なんだ。人間は危ないんだ。だからもう、メタは下りる必要なんてないんだ」

「メタモンは何年も人間の中でやってこれて、こうして帰還している。彼の功績が信じられないのかい」

「違う、違うとも、でも」

コジョンドとガントルが言い争っているのを見ていながら、とうの彼は口を挟めなかった。傍目からでも、どうやらコジョンドは焦っているらしいことは十分わかった。
数日前、山に帰還した日を思い出す。もしかして、と考えた。まだあれを気にしているのか、と。彼自身気にしていることなのだから、彼女がそうだとしても、当たり前に思えた。

「そうだ。もう人間ごときに会う必要なんてないじゃないか。行かなければいい。それでいいじゃないか」

「そんなことをしたら、山で人間が失踪したことになる。多くの人間が登ってくるよ。結果的に、人間に先手を打たれることになる。間違いなく僕らの計画は頓挫するね」

「っ……しかし、だがな……」

「第一、リーダー。君のその態度は、レジスタンス全体を見てのものじゃない。僕には、君個人の拘りのように見えるのだけれど」

言い争いの中、ガントルがそう突き刺した。そう言われればコジョンドは答に窮して、もごもごと口を動かした。
 ▼ 91 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/13 00:34:34 ID:01co36FA [40/70] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告
「それは、そんな──」

「いいかいリーダー、君はこのレジスタンス全てのポケモンのリーダーなんだ。この山は君を信頼しているんだ。君一人がブレれば組織がブレる。それは皆の信頼を裏切ることになる。信頼には報いなければならない。そうだろう?」

コジョンドは一歩後ずさった。図星だったようだ。
……ガントルの言葉は、横で聞いている彼にとっても、耳に痛かった。

「君はこの群れのリーダーだ。信頼されているんだ。それを思い出して、皆のために考えろ。メタモンは信じられるポケモンだ。彼の任務はいよいよ大詰めだ。不安要素が一つある。ならどうするべきか──」

……聞くに堪えなくて、彼はガントルの言葉を遮った。

「いや、もういい、ガントル」

「メタモン」

「もういい。元より、ただの提案、だ」

壁を離れて、自室へと歩く。それで、二人の口論も終わるだろうと。
ガントルの言葉を思い出す。信頼。……彼は信頼されていた。この山の、このレジスタンスのポケモンは、人間の中で任務を成し遂げつつある彼を信頼し、尊敬し、感謝していた。彼は信頼されていた。
信頼には報いなければならない。ガントルの言葉が頭に響く。重く、重く。

メタモンは信頼されていた。
 ▼ 92 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/13 00:35:13 ID:01co36FA [41/70] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告
メタモンは自室に入って、ドアを閉めた。
火のついた暖炉の前に、ノコッチが踞っていた。一瞬驚いて、そして暖炉の管理を任せていたことを思い出した。

「ああ、すまな、い──」

「あの人間から貰ったのかい? チョコレート」

「っ──」

その声に、目を見開いた。ノコッチではない、しかし聞き覚えのある声だった。その尻尾は、気づけば黒くもふもふとしたものに変わっていた。どうやら、目の前のノコッチはゾロアの化けたものらしかった。
……そしてどうやら、ゾロアは昼間のメタモンのことを見ていたようだった。

「見ていた、のか」

「朝、君を見かけたからね。姿を消しながら、ひょこっと。ああ、君を見たのは僕だけだ」

安心してよ、と言いながらゾロアは尻尾をノコッチのそれに戻した。端から見れば、その姿は完璧にノコッチに見えた。

「で。あのチョコ、あの人間から貰ったんでしょ」

「……」

「そして君は、あの子のことが好きなんだね?」

「出て、くれ」

「図星だ」

ノコッチの姿は、大きく体を伸ばして、暖炉の前から動き始めた。

「大丈夫。僕は誰にも話さない」

そう言いながら、部屋の外へと出ていく。
メタモンは、部屋の中に一匹になった。

コートの中から、カイロを取り出した。もう冷えきってしまったそれは、ただのゴミだ。
しかし、どうにも。グレースの顔がちらついて、ただのカイロも愛しく感じられてしまって。気づけば彼は、茶色の箱の中に、冷えたカイロを入れていた。
ベッドに横たわる。目を閉じれば、頭の中を、グレースと、ガントルと、ゾロアの顔がぐるぐるした。
メタモンは信頼されていた。報いるべきだと、結論は出ていた。
 ▼ 93 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/13 00:36:00 ID:01co36FA [42/70] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告
───


昨日の件を受けて、メタモンは対策を一つ講じた。うっかりグレースと出くわしてしまわない為の対策を。

「工事現場に人間確認!! 頭の数は八です!!」

「わかった」

マメパトの報告を聞いて、積もった雪の中を歩き始める。見上げれば、青い空に白い雲が幾つかぷかぷかと浮かんでいるだけだった。
山のポケモンに、人間の見分けはつかない。しかし数なら数えられる。……この事業に携わる業者の人間は、八人だった。それより多く人間がいれば、それはリンドの会の人間……恐らく、グレースだ。

洞穴を出る前に、コジョンドの部屋を覗いたことを思い出す。彼女は寝ていた。昨日の口論を、引きずっていないと良いのだが。
歩いていると、ゾロアが道の脇にいるのを見かけた。一瞬目が合って、その目はメタモンにウインクした。しかめ面を返しておく。


『ああ、あんたか』

『今日も、お願い、します』

少しだけ、建築業者に挨拶した。業者の面々のメタモンを見る目が微妙ににやついているのは、きっと、昨日のことを思い出していたからだった。
行きつけだったバーを思い出した。あの店主とレディアンは、元気にやっているだろうか。
……元気にやっていたとして、メタモンはそれを壊さなければならなかった。
 ▼ 94 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/13 00:36:35 ID:01co36FA [43/70] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告
工事現場の離れに立つ。眺める限り、工事は順調と見えた。
ガサガサと音がする。振り向けば、茂みを掻き分けてガントルが顔を出していた。

『ん"ん"っ……ガントル、か」

「昨日は悪かったね」

「やりすぎ、だ」

そうメタモンが言えば、ガントルは少し俯いた。やり過ぎたのは自覚しているようだった。

「リーダーがあんなに滅茶苦茶だったのは初めてだったからね。僕も、加減が出来なかった。言い過ぎたよ」

「……」

「本当に、あんなに参ってるのは初めてだ。……なあ、メタモン。僕が思うに、リーダーはお前を好いていると思うんだ」

次いでそう言った。いきなり言葉で刺してくるのは、メタモン相手でも変わらなかった。
いや。メタモンにも、それは解っていることだった。今までの言動を省みるだけで、それは推察できることだった。……これが人間が襲ってくる前の話だったなら、多分、何の躊躇いもなくそれに答えられただろうとも思っていた。

今は違う。

「もちろん、今は無理だろう。お前は人間の姿だからね。交尾とか出来ないだろうとも。でも、言葉で答えてやるくらいなら出来るはずだ」

「……」

一瞬、ガントルがいきなり交尾の話を持ち出してきたことに面食らった。しかし冷静に考えれば、ポケモンが好き合ってすることはまず交尾だった。それ以外のことを先に求めるのは、人間の考えだ。
 ▼ 95 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/13 00:37:10 ID:01co36FA [44/70] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告
「……出来ないのかい?」

ガントルは答えを求めていた。コジョンドを愛してやれるかと。……この問いは同時に、レジスタンスとしての覚悟を問ってもいた。ここで頷くことが、コジョンド個人のためにも、打倒人間を掲げるレジスタンス全体にとっても最良の選択だった。
出来ない。

「誰か、他にいるのかい」

「……」

「……まさか僕だったりしないだろう?」

「それはない」

そう言えば、だろうねとガントルは頷いた。
視点を前に向けた。工事は着々と進んでいた。

「今は、こっちに、集中させてく、れ」

「そんな集中するような仕事でもないと思うけど。まあ、僕は子供達のお守りに戻るとするよ。暇になったらお前も来るといい」

そう言いながら、ガントルは茂みの中に消えていった。足音が去っていくのを聞きながら、メタモンは肩を竦めた。
 ▼ 96 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/13 00:37:45 ID:01co36FA [45/70] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告





今日も、何事もなく工事が終わる。何事もなく一日が終わる。そうだ、これが日常なのだ。メタモンは己に言い聞かせた。
口がアルコールを求めていた。ハイボールの気分だった。そんなものはない。人間の世界で飲み過ぎたなと、少し後悔した。

道を歩いていると、生温い風が首もとを掠めた。気配を感じて振り向けば、ゾロアが座り込んでいた。

「……何だ」

「あんまり驚かないなぁ君」

こういうところはつまんないね、と付け足したゾロアは、首もとを左足で掻きながらにへらと笑った。

「ねぇねぇねぇ。君今どんな気持ち? ねぇどんな気持ち?」

「……どうもこうも、あるか」

「どうなの? 恋の炎で胸って火傷するの?」

「近寄るな、近寄るな」

どうやらゾロアは、メタモンを面白がっているようだった。イリュージョンを無駄に駆使して、前後左右から煽ってくる。メタモンは自棄になって両手を振り回して、それから自分の動きがみっともなかったかと気になった。
 ▼ 97 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/13 00:38:41 ID:01co36FA [46/70] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告
「はははははは、本当に君人間みたいだね!! 関節とかさ、ちゃんと人間の動きだ!!」

当たり前だ。メタモンは言った。人間の死体を観察しつくして作った、二度と再現の効かない身体だ。

「メタモンに戻ったら大変だね。二度とあの子に気付いて貰えなくなるよ」

……当たり前のことを今更言われても困る。
メタモンはコートの襟に顔を出来るだけ埋めた。このゾロア相手では、聞き手に回っているとずっとこの調子で好き勝手言われ続けるだろう。

「それより、だ。いいのか、お前」

「何が?」

「レジスタンスに、なるのか」

だから、質問する側に回った。ここに居座り続けているゾロアに。数日後にはきっと山全体で戦場に赴くことになるだろう群れに、レジスタンスの群れに居座るゾロアに。ゾロアは暫く上を向いてから、またにへらと笑った。

「ここは良いところだと思うよ、僕は。何しろタダで木の実を分けて貰えるし、寝床にも困らない」

それは、ゾロアがレジスタンスの一員になる前提で提供されているものだ。メタモンはそう言った。あまりそれに頼っていると、戦いの直前になってじゃあサヨナラ、とも行かなくなるぞ、と。
それを聞いたゾロアは、にやついた顔はそのままに首を傾げた。

「じゃあ何だい君、僕を追い出したいのかい? いや、逃がすなのかな、これは。それはどっちでもいいか。でも君、レジスタンスの幹部だろう? 戦力を何でわざわざ減らすのさ?」

「いや──」

「戦力、少しでも多い方が良いでしょ? 街には人間が山ほどいることは君が一番知ってるんじゃないのかい」

言葉に詰まった。確かに、ゾロアの言っていることは最もだ。メタモンには戦力を増やすメリットはあっても減らす意味は何もない。そうするべきではない。その通りなのだ。

メタモンは歩き始めた。ゾロアに付き合うのは精神的に堪えるものがあった。……別にゾロアに限定されたことでもなかった。メタモンは、誰と話しても疲れていた。
 ▼ 98 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/13 00:42:16 ID:01co36FA [47/70] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告
───





「工事現場に人間確認!! 頭の数は九です!!」

「……そうか」

メタモンは頷いた。今日は、工事現場に行くべきではない日のようだった。
着工して一週間は過ぎていた。もう基礎工事は終わって、これといったトラブルもなく、いよいよ工事は橋を架ける段階に入っていた。
しかし今日は、工事現場には行かない。メタモンは少し考えてから、ガントルの方に向かうことに決めた。工事現場には、グレースがいた。

振り向けば、丁度コジョンドが部屋から出てきたところだった。目があって、少し笑えた。数日経ったのだから落ち着きを取り戻してくれてもよさそうなものだったが、まだ彼女の瞳は不安げに見えた。

「ああ、コジョ」

「どうした」

「今日は、俺も、子供のお守りを、することにする」

「……そうか」

そしてメタモンは歩きだした。
 ▼ 99 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/13 00:42:51 ID:01co36FA [48/70] NGネーム登録 NGID登録 wf 報告


「来たぞ」

「ああ、お前か」

山を少し下ったところに、レジスタンスが保護した子供達の保育施設があった。人間によって親を亡くしたポケモンや、レジスタンスに所属しているが自力での育児に困ってしまったポケモンの子供を一手に預かる施設だった。
低木を編んで作った空間に侵入すれば、沢山の小さなポケモンが、不審者を見る目でメタモンを見上げた。

「……にんげん?」

「にんげんだ」

「にんげんだよ」

「なんで」

「こわい」

そんな声がぼそぼそと上がりはじめる。ガントルはそれを聞きながら頭を軽く振って、それから声を張り上げた。

「えー、皆!! こいつは人間じゃないぞ。メタモンだ。僕らレジスタンスの仲間で、人間の中に忍び込んで活動してくれていた、すごいやつだ!! 北と東の道路、あるだろ? あれ作ったの、こいつなんだよ!!」

メタモンは半ばぎょっとした。隣のガントルが今までになく大声を張り上げたのも驚きだったが、ガントルの中でのメタモンの評価が、メタモン自身信じられないくらい高かった。
子供達もまた、驚きの目をガントルに、そしてメタモンに向けていた。すぐに信じたものもいたし、信じないものもいた。
 ▼ 100 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/13 00:43:40 ID:01co36FA [49/70] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告
「うそだぁ!! メタモンならもっとぐにぐにしてるはずだよ!!」

小さなユニランがそんなことを言った。本来ならその通りなのだが、今のメタモンの身体はそんなに都合が良くはなかった。

「でもお父さんが、人間みたいなメタモンがいるって言ってた!!」

小さいザングースがそう言った。……もしかして、ずっと前に出会ったあのザングースの子供なのだろうか。コートの左袖のワインレッドを見ながら、あのザングースの目を思い出した。

「あのどーろって、メタモンさんが作ったの? わたし、あれでお山まできたの!!」

小さなエモンガがそう笑った。メタモンの設計した反乱用の移動ルートは、愛護団体としての建前の機能もしっかりこなしていたらしかった。
頷きながら、グレースが聞いたら喜ぶだろうな、と思った。彼女は今、工事現場で一人、作業を眺めているだろう。顔を見たくなった。しかし、そうしたら、目の前のポケモン達の信頼を裏切るような予感もあった。
ガントルが一つ咳払いをした。

「えー、皆!! 信じてくれたかな!!」

ガントルがまた声を張り上げれば、今度は子供達は頷いた。

「良かった。今日はメタモンもここで──」

「だってね、だってね」

ガントルの言葉を遮って、幼いクルミルが声を上げる。クルミルはどうやら、メタモンの足首、少し露出した部分を指していたようだった。
 ▼ 101 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/13 00:44:25 ID:01co36FA [50/70] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告
「足の部分はちゃんとメタモンの色してるんだよ!!」

「──な」

……愕然とした。
メタモンは慌てて座り込んで、周囲の視線も省みず靴を脱ぎ、靴下を脱ぎ。確かに、色が戻っている。メタモンのそれに。間違いなく。ズボンを捲り上げれば、膝の辺りまで色が戻っていた。
油断した。
ここ最近、必要性が薄れていたからとメンテナンスが雑だったかもしれない。こんなに派手に色が戻るなんて。

「っ……」

「おい、メタモン、お前」

もう片方の脚はどうだろう。メタモンは靴をまた脱いだ。こちらの脚はまだ無事らしい。しかし油断はならない。膝はどうだ? 腰は? 腹は?

「メタモン!!」

……ガントルが一喝して、メタモンははっと顔を上げた。慌てて服を脱ぎ散らかす人間みたいな姿が余程面白かったのか、幼いポケモン達は皆げらげらと笑っていた。

「……悪い。一旦、戻る」

靴を持ち、靴下を持ち、ガントルに詫びた。返事は聞かずに施設を出る。融け残った雪を素足で踏み締めて自室へと向かった。胸の痛みがぶり返してくる。
 ▼ 102 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/13 00:45:00 ID:01co36FA [51/70] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告


部屋に飛び込んだ。暖炉の前に座り込んで、色の戻った脚を火にかざす。持っていた靴はベッドの上に投げ出した。

ベッドの上で、こつんと音がした。
見てみれば、どういうわけだかダルマモードのヒヒダルマがベッドの上に鎮座していた。

「……ゾロアか」

「正解」

次の瞬間、その姿はゾロアになっていた。ゾロアはベッドに座り直しながらメタモンの脚を見て、その色に口笛を吹いた。

「いやーやっぱり君本当にメタモンなんだねー」

「……」

「ほっとくとそうやって元に戻っちゃうんだ」

メタモンは部屋の隅、成人向け雑誌を手に取った。人間の脚が写っているページは何処だったか。

「でも、あれ? 別にそのくらいよくない? 別にちょっと人間と話すくらいなら気づかれないでしょ?」

ゾロアはまだ喋っている。どこか得意気な調子で腹立たしかった。
人間の脚を見つけた。暖炉の火に照らしながら、自分の紫の脚と見比べる。そして意識を集中させた。人間のそれと、色を同じにするために。

「というか、どうせ人間殺しちゃえば元の姿に戻るんだよね? 今更じゃんそんなの、おかしくない?」

変色する。変色する。紫を塗り替える。それを見ながら焦燥が引いていくのを、メタモン自身感じていた。
……それと引き換えに、隣のゾロアの声が、すっきりと耳に飛び込んでくる。得意気な調子、正しい言葉。全くもってその通りだと、どこかメタモン自身納得できる言葉。

「もう橋だって作ってるんでしょ? 人間の元に戻ることなんてないんだから、もういいじゃん!! そりゃ全身紫色じゃああの子に会えないだろうけど? どうせ会うことなんてないんだから!!」

「止めてくれ」

聞きたくない。

「もう、止めてくれ」

ゾロアをひっ掴んで、部屋の外に投げ出した。最後に見えたその顔は、満足げに笑っていた。
解っている。矛盾していることなんて、嫌になるほど解っている。……それでも怖いと思ってしまう。
 ▼ 103 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/13 00:45:45 ID:01co36FA [52/70] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告





結局、保育所には戻れなかった。体の色を確認して、修正して、服を着直して、それを全て終えてしまっても、なんだか洞穴を出ようとすると足がすくんでしまった。
空を見上げた。気づけば夕方になっていた。

足音が聞こえた。見れば、ガントルが山道を登ってくるところだった。目が合ってしまって、メタモンはやりきれなくてそっぽを向いた。

「メタモン」

「……悪かっ、た」

そう言った。ガントルはやれやれと頭を振って、洞穴の中に入ってくる。

「お前はもう少し落ち着いてくれ。……お前は間違いなく、今回の戦いの、一番の功労者なんだから。皆のヒーローだ、絶対に。だから、しっかりと構えてくれないと、示しがつかない」

「気を付ける」

すれ違いざまに忠告されて、メタモンは顔を半分コートに埋めた。ガントルの言葉は正しかった。

洞穴から一歩踏み出した。ガントルの後を追いかける形を取るのはなんとなく気が引けた。
溶け残った雪を踏み締めて山道を行く。融けかけの雪は滑りやすくて、何度か足を取られたりした。
 ▼ 104 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/13 00:47:40 ID:01co36FA [53/70] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告


そうして歩き続けていれば、いつの間にか工事現場までやってきていた。もう人は誰もいない。昨日より少し完成に近づいた橋があるだけ。
離れにあった丸太を見た。一部分、雪の剥がれたところがあった。近づいて、座ってみる。眺めた橋の出来は上々だった。グレースは、どんな顔をしてこの風景を眺めていたのだろう。

「……」

あと何日で完成するだろうか。一週間? それとも五日? 考えると頭が重くなる心地がした。出来上がった橋は、グレースが考えているだろう使われ方をすることはない。それは崩れ、滑り、人間を殺す為の最初の一撃として消費される。その過程で、彼女もまた轢き潰される。
そうでなければならない。
己の手を見た。今まで人間として振る舞ってきた手を。どう見ても人間のそれである手。キーボードを叩き、図面を書き上げた、人間を殺すためにあった手を。
グレースの髪を撫でた手を。

気配を感じた。遅れて、雪を踏み分ける足音が耳に届いた。
振り向けばコジョンドが、何も言わずに立っていた。

「……」

「……」

メタモンの横をすり抜けて、彼女は工事中の橋に近づいていく。置いていかれた重機の脇を通り、積まれた資材の脇を通り、そして壁に触れそうなくらいまで近づいて、立ち止まった。
 ▼ 105 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/13 00:48:33 ID:01co36FA [54/70] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告
「メタ」

彼女の口から吐息が漏れる。寒空に息が白く曇った。

「この柱の根本の辺りが、ウィークポイントなんだったな」

「……そうだ」

「例えば私がここにとびひざげりを打ち込めば、この橋は崩れて、人間どもの元に落ちていくわけだ」

「……お前も巻き込まれるぞ、コジョ」

メタモンはそれだけ言った。確か本番では、ガマゲロゲだかスワンナだかが、ハイドロポンプを撃ち込む手筈になっていた。

「私は待っている」

コジョンドは空を仰いだ。

「人間への復讐を遂げる日を」

つられてメタモンも空を見上げた。星が瞬いていた。

「私の大切なものを奪った、人間を全滅させ、大地を私達の元に取り返す日を」

彼女は続ける。
 ▼ 106 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/13 00:49:19 ID:01co36FA [55/70] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告
「あの日。私が両親を失ったあの日。お前は私の隣にいてくれた。あの日。お前が人間の姿を得たあの日。お前は私の無茶な頼みを聞いてくれた」

彼女の瞳にも、星が映り込んでいた。

「私は信じている。お前と共に取り返した大地を踏める日を。お前は──」

……そこで、コジョンドは言葉を詰まらせた。
気づけば、彼女はメタモンのすぐ前まで戻ってきていた。思わず息を呑んだ。

「──お前は、私と同じ夢を持っては、くれないのか?」

「……」

「もう、人間を憎んではくれないのか? そんなに魅力的だったのか? 私の知らないところでお前は誰かと会って、何かをして、そうして心変わりをしてしまったのか? なあ……もう、私と同じポケモンでは、いてくれないのか?」

ああ、そんなに。

「私は怖い。お前はどこかに行ってしまった。私のせいだ。それでも私は、お前との未来を手放せないでいる。お前が居なくなったという事実を目の当たりにするだけで息ができなくなる。なあメタ。お前はもう」

そんなに彼女は、思い詰めていたのか。
どれだけ自分を取り繕っても、それでも覆いきれないくらい、ずっと胸に重しを抱えていたのか。

「私と同じ道を、歩いてはくれないのか?」

……立ち上がった。それ以上コジョンドに何も語らせまいと、メタモンはすいと立ち上がった。少し口ごもった。メタモンには、コジョンドにかけてやる言葉が上手く思い付かなかった。

「何を言っているのか、わからない」

絞り出せたのは、その嘘一つだけだった。
 ▼ 107 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/13 00:49:56 ID:01co36FA [56/70] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告
───


一日経った。二日経った。三日経った。
出来上がりつつある橋を眺めた。ことあるごとにゾロアに煽られた。コジョンドとは目を合わせられなかった。何かに焦る度にガントルに窘められた。雪が降った。雪が少し融けた。また雪が降った。


メタモンは今日もまた工事現場にいた。いよいよ橋が架かる段階に来ていた。山と山とが結ばれる。作業員達は撤収作業にかかっていた。明日には、橋は完成するだろう。メタモンはそれを理解した。
生温い風が吹いた。

「ねぇねぇねぇねぇねぇねぇ」

「またお前、か」

横を向けば、人間っぽい姿があった。何となく女性っぽい、知らない姿。黒い尻尾が生えていた。

「……あれ、反応薄い。似てなかった? カノジョに」

「全然だ」

どうやらグレースを真似ようとしたらしかった。メタモンが軽く人間擬きのゾロアを睨めば、ゾロアはちぇ、と顔をしかめて、それからただのゾロアに戻った。
 ▼ 108 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/13 00:50:58 ID:01co36FA [57/70] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告
「やっぱりうろ覚えじゃダメだねー。写真撮れれば良かったんだけど」

メタモンは、まだゾロアを睨んでいた。

「いよいよ完成が近いね!! いやー楽しみだよ、人間を皆殺しにするの!! ねぇそうでしょ? 君の作ったこれが、麓の街を血で染め上げるんだ!!」

こうやって、にやけ顔で煽ってくるのは解りきっていたからだった。
しかし。ゾロアの言っている言葉は全ては事実なのだ。それだけに、どう文句をつければいいのかも思い付かない。

「にしてもさ。僕は不思議なんだよ。君、あの子のこと本当に好きなんでしょ? あんなにチョコ大事にしてたもんね!! ならさならさ、なんで殺そうってなるの? そういうせーへき?」

「うるさい」

「いや、まあ、理解できなくはないよそういうのも? 一緒に死ぬタイプの恋愛とか見たことあるしね」

「うるさい」

否定も肯定もできない。ただ拒絶した。痛み続ける胸がむしゃくしゃした。耳を塞ぎたくなったが、何故だか手が動かなかった。メタモンの横には事実があった。
腹が立つ。何に? メタモンは考える。横のゾロアの言葉は、正しい事実と、正しい疑問だけで出来ている。メタモンは人間を殺そうとしている。人間を愛してしまっている。矛盾している。それに答えを見いだすなら、それこそ性癖ぐらいしか思い付くまい。当然だ。ゾロアの言葉に嘘はない。じゃあ何で苛立っている。口調か? じゃあもっと落ち着いた口調で言われたなら、自分は粛々とそれを受け止められるのか? 違うだろう?
頭の中がぐちゃぐちゃだ。作り物の頭を抱えて、メタモンの脚はふらついた。遠くの方で、作業員がメタモンを眺めていた。辛うじて片手を上げて、帰っていいぞと合図した。
言葉を絞り出した。

「お前は何がしたいんだ」

「君こそ何がしたいのさ」
 ▼ 109 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/13 00:51:27 ID:01co36FA [58/70] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告
同じ言葉を返された。何がしたい、と返された。
己が何がしたいのか。……答えられない。考えてしまうだけで、信頼を、沢山の信頼を裏切ることになってしまうと理解できた。

「俺は、信頼されて、いる。俺は、やらなきゃ、いけない。やる、べきだ」

「それやりたいことなの?」

「──」

違う。
違う。
そうじゃない。
それでも。

……遠くの方で、羽ばたく音が聞こえてきた。


「あっ、お疲れ様ですメタモンさん!! そちらは……あっ、ゾロアさんですね!!」

空を仰いだ。マメパトが、メタモンとゾロアの上を飛んでいた。

「あんまりメタモンさんをからかっちゃいけませんよ、メタモンさんは任務も大詰めで大変なんですから」

「へへっ、ゴメンゴメン」

ゾロアは舌を出してウインクした。どうやらマメパトは、会話を聞いてはいないようだった。
メタモンは重い頭を大きく振って、自分を信頼してくれているポケモンを見上げる。何があったかと聞けば、今日は皆でパーティーを開くとマメパトは答えた。

「明日には橋が出来るんですよね? その日の夜にはもう最後の作戦会議に入りますから、余裕がある今日のうちにとなったんです」

「……そうか」

「ねぇそれ僕も参加していいやつ?」

「もちろん!!」

マメパトが頷くのを聞いて、ゾロアは待ってましたと駆け出した。マメパトもそれについていく。後には、メタモンだけが残された。

振り向いた。
もう、橋はほぼ架かっていた。
 ▼ 110 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/13 00:52:19 ID:01co36FA [59/70] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告





「えー、次は……次は!! 子供達の!! 合唱です!!」

どうやら司会進行役らしいガントルが無理に声を張り上げれば、即席の舞台の上に保育所の幼ポケモン達が現れた。
パーティーは盛り上がりの最中にあった。山の中に強引に押し広げたスペースにレジスタンスの面々が集まって、木の実を食べ水をのみ、互いに笑いあっていた。
最後の晩餐になるだろうと覚悟してもいた。

「えぇ、と、戦いに行く大人達の為に、一生懸命歌います!!」

「いいぞぉ」

「頑張れぇ!!」

舞台の上ににこやかに野次を飛ばす大人達。舞台の上で緊張した面持ちの子供達。
それを眺めながら、メタモンはコップの水を啜った。残念ながら、アルコールの類いは用意していないらしかった。

子供達は歌い始める。始めはちびちびと、そして進むにつれて朗々と。やはりその歌もまた、戦場で戦うポケモンを讃える歌だった。一体誰が作っているのだろう。
メタモンはテーブルからモモンの実を取った。一思いにかじってみれば、みずみずしい果汁が口の中に溢れた。ただ、昔より果汁が減ったとも感じた。
安全な場所、肥沃な大地、広い遊び場、子供の未来。ポケモン達が求めるのは、ただ復讐だけではない。原点は確かに人間への復讐であり、今も根幹はそのままだ。しかし同時に、これは未来を求める戦いでもあった。たとえ命を失うとしても、それでもレジスタンスは未来を見ていた。
それを切り開いたのはメタモンだ。ガントルなら躊躇いなくそう言うのだろう。
 ▼ 111 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/13 00:52:58 ID:01co36FA [60/70] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告
「良かったぞ!!」

「お疲れ!!」

「可愛かったよ!!」

気づけば、大人達はそんな声を張り上げていた。どうやら歌は終わったようだった。子供達は舞台の上で笑っていた。
気づけば、隣の木の枝にマメパトが止まっていた。モモンの実を咥えていた。

「いやあ、ふがふが、良いですねぇ、ふがふが」

「……食べてから、話せ」

「ああ、すい、ふがふが、すいません」

メタモンが軽く注意すれば、マメパトは一気にモモンを飲み込んで、それから楽しげに笑った。
甥があの中にいる、とマメパトは退場していく子供達を指した。メタモンには、どれがその甥なのかはさっぱり判別できなかった。

「全部終わったら、たっぷり自慢するんです。あの戦いで人間に最初に襲いかかったのはお前のおじさんなんだぞ、って」

そう言った。

「……もし僕が山に帰れなかったら、メタモンさんに頼んでもいいですかね、自慢」

続けて、そうも言った。
そうだ。人間と本当にやり合うことになるのなら、こちらの死者はゼロというわけにはいかない。向こうを殺すのだから、当然こちらも殺される。……いや、逆だ。このレジスタンスにとっては、こちらが殺されたのだからこちらも殺すという順序なのだ。
 ▼ 112 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/13 00:54:16 ID:01co36FA [61/70] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告
「いや、メタモンさんの方が普通に功績偉大だなぁ。ははっ、あの橋以上に誇れる功績を作るなら、何人殺せば良いんでしょうね?」

「……」

何も返せない。
また、モモンの実を口に入れた。チョコレートの甘さが懐かしく思い出された。

舞台の上を見た。何やらガントルはあたふたしていた。

「ええと……尺が余ったな……」

そんなことを呟いていた。呟きながら、きょろきょろと辺りを見回していた。
メタモンは何となく嫌な予感がして、コートの襟に口元を隠した。

「……ああ、いたいた。……メタモン!!」

人間の体をしていては、それで身を隠せるわけもなかった。ガントルがメタモンに声を張り上げる。

「……何だ」

「あ、上がってこい!! 」

瞬間、辺りの全部のポケモンの視線がメタモンに注がれた。誰もがメタモンに注目していた。メタモンは冷凍ビームでも食らったみたいに凍りついてしまって、しかしマメパトに押されて舞台まで追いやられる。

「えー、もう皆、知ってるだろう!! 彼が!! 人間のふりをして!! 人間を操って!! 人間を倒すための設備を作ってくれた功労者、メタモンだ!!」

気分が上がってきたのだろうか、今までになく叫んでいるガントルが紹介すれば、ポケモン達は一気に沸き立った。メタモンは無理矢理舞台の真ん中まで持っていかれて、そして全てが沈黙する。
……演説を。メタモンの演説を、皆が求めていた。期待していた。

何も言えない。口を開こうとする度に、人間の顔が脳裏にちらつく。視界の一杯に、期待するポケモン達の顔が溢れている。人間を殺すレジスタンスの仲間として、尊敬の目を向けている。

「……メタモン」

ガントルがすまなそうに目を細めていた。急にアドリブを振って申し訳ないと。しかしガントルもまた、他と同様にメタモンの言葉に期待していた。
……駄目だ。
そんな目を向けるな。
やはり胸に痛みが走った。
違う。
違う。
人間を殺したいお前達と自分は違う。
戦場で死ぬのも厭わないお前達と自分は違う。
自分はお前達の期待してくれている英雄じゃない。
違う。
違う。
自分は、違う。
人間を好きになってしまった、最悪の──




 ▼ 113 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/13 00:56:02 ID:01co36FA [62/70] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告
───


「まあ、なんだ、その……悪かった」

ガントルはそう言って頭を下げた。お前はああいうの苦手なのは解ってたのに、無理をさせたと。

メタモンはそれに頷くつもりで首を軽く振って、目を擦りながら、まだ少しふらつく足どりで朝日がぼんやり照らす外へ出た。
昨晩、何を言ったのか、よく覚えていない。しばらく頭が真っ白で、何も言えなくて……ある瞬間から、頭の中に言葉が浮かんできた。それをひたすらになぞって、流れで水をイッキ飲みした。そうやってあの場を切り抜けたんだと思う。

まだ腹の中に水が残っていた。頭の中までたぷたぷと揺れる心地がしてとても気持ちが悪い。融けかけの雪を踏み締めて、思い切り転んでしまった。
……しかし、今日も仕事があった。今日で仕事は終わりだった。のそりとメタモンは立ち上がる。ふと、頭の中に声が響いた。

「おはよう!! 君、昨日は凄かったね!!」

昨日と同じ声だ。
……いや。よくよく冷静に考えたら、もっと聞き覚えのある声だった。

「……昨日は、助かった」

「どういたしまして」

山道の真ん中に、ゾロアが姿を現した。
 ▼ 114 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/13 00:56:29 ID:01co36FA [63/70] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告
「どうだった? 僕の考えた最強の演説。気に入ってくれたかな?」

「悪い。……よく、覚えてな、い」

「ああ。君、あんなに焦ってたもんね。そりゃ覚えてないか」

どうやら昨晩は、イリュージョンで姿を隠したゾロアがメタモンを手助けしてくれたらしかった。今まで邪険にしてきたし、今でも疎ましく思っている分、純粋に助けられてしまったことが複雑だった。

「で、どうだい? 皆のヒーローになってる気分は。羨ましいなぁ」

にやにやと笑いながら、ゾロアはそんな風に言う。メタモンはまた工事現場へと歩き始めたが、ゾロアもひょこひょこと着いてきた。
ゾロアの言葉はやはり正しかった。メタモンはヒーローだった。間違いなく。山のポケモンは今でも皆メタモンを尊敬して、信頼していた。

「俺は、信頼、されている」

「何を?」

……何を。そんなこと、決まっているだろう。

「……橋を、作ること」

「だよね。で、もう今日で君のお仕事は終わりだよね?」

「……そうだ」

一体何が言いたいんだ。
そうメタモンが溢した時には、もうゾロアの姿は消えていた。
 ▼ 115 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/13 00:57:34 ID:01co36FA [64/70] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告





『いやあ、今日でこれも完成ですね!!』

『そう、ですね』

額の汗を拭いながら、作業員の一人がメタモンに笑った。見上げれば、もう頭の上に橋は架かっていた。完成だ。完璧だ。メタモンが設計した通りの橋が──破壊兵器がそこにある。

まだ昼過ぎだった。しかし、もう建築業者の仕事は終わっていた。メタモンがもう完璧だと作業員達に言えば、今日はゆっくり休めるぞと声が上がった。
一人が、メタモンに手を差し出してきた。どうやら握手を求めているようだった。

『……あ、あぁ』

少し戸惑ったが、応じることにした。人間の圧力を、久々に感じた。

『ありがとうございました。えーと、料金はもう振り込んでくれてますよね』

『はい』

『わかりました。では、撤収させていただきます……貴方も、早く下りた方が良いですよ』

最後にそう付け足したのは、きっと、グレースの為だろう。目の前の人間の目は笑っていた。苦笑いを返して、メタモンはコートの襟に口元を隠した。
彼女は今、何をしているだろうか。まだ元気に働いているだろうか。まだ笑っているだろうか。まだ自分を好きでいてくれているだろうか。
それ以上、考えてはいけない気がした。

工事現場から少し離れて、撤収作業をまた眺めた。人間が、そのポケモンが、重機を片付け道具を片付け。……久々に、遠くから泣き声が聞こえてきた。もっと耳を澄ませれば、その泣き声をなだめるような声も聞こえた。
羽音がした。見上げれば、マメパトが空を飛んでいた。

「メタモンさんメタモンさん」

『ん"っ……どうした」

「いや、向こうの方で暴れだしたポケモンがいたのでとりあえず半分力付くで押さえつけてるっぽいんですけど、何かした方がいいこととかありますか」

どうやら、泣き声はそこから聞こえてきたらしい。工事現場を見た。あの中のどれかは、親がこの山にいることを知るべくもなく、楽しく働いているのだろう。
メタモンは、そのまま押さえていてくれとマメパトに言った。親にも子にも、してやれることは何もない。わかりました、とマメパトは飛び去っていった。
 ▼ 116 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/13 00:58:09 ID:01co36FA [65/70] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告


人間は撤収していく。機械は撤収していく。車は撤収していく。日は傾いた。ぱらぱらと雪が降って、すぐに止んだ。泣き声も、気づけば聞こえなくなっていた。
後に残されたのは、人間を殺すためにある橋だけ。

「やあ、仕事が全部終わった気分はどうだい!!」

……橋の上から、声がした。
ゾロアが顔を覗かせて、メタモンを見下ろしていた。

「また、来たのか」

「そりゃ来るよ」

ぱっ、とその姿は掻き消えて、刹那ゾロアはメタモンの真横に降り立った。音もなく現れたそれはいつものにやついた笑みでメタモンを見上げ、それから橋を見上げた。

「ねぇねぇ。どう? 皆の信頼に答えた気持ちは。誇らしい?」

「……」

「凄いよね、人間なんか皆殺しだ!! 皆が君を褒めてくれるよ、人間殺しの英雄さん!! キルスコア一番高いのは君になるだろうからね!!」
 ▼ 117 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/13 00:58:36 ID:01co36FA [66/70] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告
わざと言っている。わざと、痛いところを突いてきている。メタモンはそれを自覚していた。
その通りだ。そこには出来上がった橋がある。この手で描き、この手で作らせた橋。人間を殺すもの。
人間の街を。
人間の文化を。
人間を。
愛した人間を。

「はははは、もうやめてよ、僕が泣かせたみたいじゃん!!」

そう笑われて、目元を拭った。うっすらと濡れていた。雪融け水の水溜まりを覗いてみれば、その目は赤く腫れていた。
ああ、涙腺なんて作らなければよかった。そんな的外れな後悔をした。

「でさ。僕から一つ質問だ」

ゾロアはまだ続けている。止めてくれ、もう止めてくれ。沢山だ。もう十分だろう。そんな言葉が頭を埋め尽くして、しかしつっかえて出てこない。
メタモンは無言だった。山は静かだった。太陽は傾き始めていて、てらてらと半ば融けた雪を照らしていた。

「もう君の仕事は終わったんだから、後は何してもよくない?」
 ▼ 118 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/13 00:59:20 ID:01co36FA [67/70] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告
その言葉がメタモンに染み込むのを、止められるものは何もなかった。

「……どう、いう」

「だってだって。君は信頼された通りに仕事を成し遂げたんだよ? 橋はもう完成した!! 君には仕事はもう何もない!! 自由!! フリー!! 君は任務を達成した!!」

いつもの調子で、朗々とゾロアは語る。

「もう君は信頼を裏切る心配はない。君は信頼された通りに仕事を成した。誇っていい」

「……」

「例えこの後君がどうしようが、君が信頼された通りにポケモンの反逆の切っ掛けを作った事実は変わらない」

「……」

「君はもう何も出来ない。橋を崩す力もない、ポケモンを説得することもない、もう賽は投げられた!! じゃあ、君はもう何をしてもいい。実にフェアだ。違うかい?」

お前は信頼されていた。信頼の通りに仕事を成した。
もういいじゃないかと。後は何をしようが、信頼された通りにやるべきことをやった事実は変わらない。ポケモン達はあれを使うだろう。そこにお前の意思はもう関係ない。
じゃあ、お前はもう自由だと。

正しくない。
目の前の言葉は正しくない。
仕事を終えたからもう何をしてもいい? それは違うはずだ。
やるべきことは、決まっている。メタモンもポケモンで、レジスタンスの一員だ。やるべきことは、命懸けで戦場に赴くポケモン達を支えることだ。いや、あるいはメタモン自身も人間に襲い掛かることだ。
メタモンには解っている。
ポケモンであるのだから。
人間ではないのだから。
それが正しいことだ。
それがやるべきことだ。
そう生きるべきだ。
 ▼ 119 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/13 01:00:00 ID:01co36FA [68/70] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告
……解っている。メタモンには解っている。
そうするべきだと解っている。

それでも。

ゾロアの口車に、乗ってしまいたい己があった。

口の中に、チョコレートの味が浮かんでくる。多分、流した涙の味だった。
愛した人間の味だった。
グレース。
人間の名前。
人間として振る舞う自分を慕ってくれた人間の名前。

彼が愛した人間の名前。

彼は人間ではないけれど。
それでも人間を愛したのだ。
偽物の身体。
偽物の言葉。
偽物の名前。
偽物の人生。
どれだけ不合理でも。
どれだけ間違っていても。
どれだけ正しくなくても。
それだけは。

それだけは、紛れもなく事実なのだ。

「……それとも、あの子が君のせいで死んじゃったって事実を作る方が、興奮するのかな? そっちの方がいい?」

「……いいわけ、ないだろ……!!」


言いたかった言葉が、ようやく口からこぼれ出た。


「その言葉を待ってたよ」
 ▼ 120 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/13 01:01:04 ID:01co36FA [69/70] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告





日が沈む。どっぷりと沈む。もう山は闇の底。
しかしポケモン達は眠ってはいなかった。地面に地図を描き、それを囲んでいた。作戦会議だった。

「……橋が落ちるルートはメタモンの計算上こうなる。つまり、ここの一帯の人間は潰れているものと考えてくれ」

「じゃあガントルさん、俺達は」

「メブキジカ隊は北側道路から攻撃だ。この道路からは隣街に繋がる人間の道路が近い。まずはそこを塞ぎ、それから街に侵入しろ」

襲撃は白昼堂々行われることになっていた。雪融けの関係上、最も橋が破壊力を増すのがその頃だった。
まず橋を落として街まで転がし、同時に空を飛べるものが空中から奇襲をかける。この奇襲で、ポケモンセンターや回復用の道具といった人間側の回復手段を潰す。その後、北と東の道路から街に下りたポケモン達が揃って人間達を挟み込み、後は力ずくでどうにかする。最終的な結論はそれだった。
策と言える策は、メタモンの設計した橋と道路だけ。バラバラの種族のポケモンでは、集団行動にも限度がある。つまり後はもう、各々の運と、腕力だけで、山ほどいる人間に挑むつもりでいた。そうするだけの気力は、満ち満ちていた。
 ▼ 121 イックサレンダー◆ZSQq537Gzc 20/02/13 01:01:34 ID:01co36FA [70/70] NGネーム登録 NGID登録 [s] wf 報告
彼は作戦会議を、少し遠巻きに眺めていた。会議が始まった時点で、コジョンドは彼を戦わせないと最初に宣言していた。もう十分働いたと。誰も不満は言わなかった。
だから彼は、口を挟むことはない。
ゾロアと一瞬目があった。悪戯っぽい瞳は彼にウインクした。……ゾロアは既に、僕に任せろと彼に言っていた。

「ねぇねぇねぇねぇちょっといい?」

「どうした」

ガントルがゾロアの方を向いた。ゾロアは地面の地図の前まで躍り出て、街の中心に脚を置き、山から反対側の方向に伸びる一本の線を引いた。

「僕思うんだけどさ。このプランだと、人間は街の反対側から簡単に逃げられると思うんだよ。どれだけ急いでも、一瞬で街を包囲は出来ないでしょ?」

そう言いながら。
ポケモン達は顔を見合わせる。レジスタンスは復讐を唱うもの。逃げおおせる人間がいるのは困る。ゾロアは辺りを見回して、ざわつく周囲に微笑んだ。

「……確かに。なら、どうするんだ?」

「僕とメタモンが、先に街に下りる」

微笑みながら、提案した。
このページは検索エンジン向けページです。
閲覧&書き込みは下URLよりお願いします。
https://pokemonbbs.com/post/read.cgi?no=1157134
(ブックマークはこちらのページをお願いします)
  ▲  |  全表示161   | << 前100 | 次100 >> |  履歴   |   スレを履歴ページに追加  | 個人設定 |  ▲      
                  スレ一覧                  
荒らしや削除されたレスには反応しないでください。
書込エラーが毎回起きる方はこちらからID発行申請をお願いします。(リンク先は初回訪問云々ありますがこの部分は無視して下さい)

. 書き込み前に、利用規約を確認して下さい。
レス番のリンクをクリックで返信が出来ます。
その他にも色々な機能があるので詳しくは、掲示板の機能を確認して下さい。
荒らしや煽りはスルーして下さい。荒らしに反応している人も荒らし同様対処します。




面白いスレはネタ投稿お願いします!

(消えた画像の復旧依頼は、お問い合わせからお願いします。)
スレ名とURLをコピー(クリックした時点でコピーされます。)
新着レス▼